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2001/12/18
民主党憲法調査会「中間報告」
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民主党憲法調査会
会長:鹿野道彦
<目次>
■新しい国のかたちと日本の憲法の姿(第一作業部会:総論)
T.いま、なぜ論憲か。
U.21世紀の新しい日本のかたちを創り出すために
1.豊かな可能性を持つ国・日本を生かす。
2.個人の自立と共同による「社会の再生」をめざす
3.分権連邦型国家を創り出し、新しい民主主義を確立する。
4.国際社会と協働する「平和創造国家」日本をめざす。
V.今日における憲法論議の前提条件と基本的な課題
1.新しい課題と国家の役割についての再定義
(1)グローバリゼーションと国家の役割
(2)市場と国家の役割
(3)地域及び個人の自己決定と国家の役割
(4)国家とアイデンティティとの関係
(5)国家と国民との関係
2.憲法の最高法規性と根本規範の再定義
(1)国際法規と憲法との関係
(2)普遍的な法としての人権保障と憲法
(3)権力分立及び統治機構のあり方と憲法
(4)国権の発動としての安全保障政策の制約と憲法
(5)憲法尊重義務と違憲立法審査制の確立
■首相主導の議院内閣制度の確立に向けて(第二作業部会:統治)
1.首相(内閣総理大臣)主導の政府運営の実現
2.内閣が遂行するのは「行政」ではなく、政治による「執行権」の行使である。
3.二院制のあり方と参議院の役割
4.政府・与党の一体化と責任の明確化
5.憲法調査機能の拡充と違憲立法審査制の確立
結 語
■すべての人々の人権を保障するために(第三作業部会:人権)
1.「新しい人権」の確立について
(1)プライバシー権
(2)環境権
(3)自己決定権
2.憲法における外国人の人権保障のあり方について
(1)外国人の登録及び再入国について
(2)外国人の受験差別問題
(3)地方自治体における外国人の参政権問題・住民投票問題
(4)外国人の法的地位と国籍要件問題及び難民受け入れ問題
(5)その他の外国人の人権問題
3.デュープロセスと人権保障機関
(1)公権力による人権侵害について
(2)禁止される差別事由の拡大整備
(3)人権委員会の設置など人権保障機関の整備
■分権型社会の実現をめざして(第四作業部会:分権)
1.中央政府の役割を限定し、地方政府の自主性を確立する。
2.国・地方紛争処理機能の整備と地方参画制度
3.地方自治憲章の導入と制度化
4.地方自治体のあり方の再検討
5.地方政府の多様性の実現
結 語
■PKOの変容と日本の参加について(第五作業部会:国際・安保)
1.国連平和維持活動に対する基本姿勢
2.現状の問題点
(1)敵対行為が予見され、強制色の強いPKO
(2)国連基準による武器使用
3.今後の論点
(1)安全保障基本法等による規定
(2)PKO派遣部隊の位置付けの見直し
(3)憲法との関わり
新しい国のかたちと日本の憲法の姿
−第一作業部会−
T.いま、なぜ論憲か。
私たちは、半世紀以上も荒波に耐えてきた憲法の柔軟性、そのしなやかさに改めて驚く。それはまた、如何に現在の日本国憲法が国民生活と国民意識の中に深く定着してきたかを示唆している。
私たちは、日本国憲法は戦後の平和国家日本の確立と持続に極めて大きな役割を果たしてきたと受け止めている。日本という国が長い平和を享受することができたということにとどまらず、人権意識や民主主義をこの国に深く根付かせることができたのも、日本国憲法という土台があってのことである。それどころか、国際平和を願う日本国民の感情を広く世界に伝える役割も充分に担ってきたと自負している。
だが、私たちは、その一方で、憲法の運用において惰性に流され、曖昧さのつきまとう憲法解釈のままに、国際社会の要請や時代の変化に鋭く反応する気概をこの国の人々から喪失させているのではないかとの一抹の懸念も抱いている。他国の紛争はともかく、「日本が平和であればそれでよい」といった偏狭な一国平和主義や、他人のことはともかく、「自分のやりたいことをやっていればいい」といった極端な個人主義を産み落としてきたのではないかと心配している。
とりわけ、90年代を迎えて、世紀末転換期に応えるかのように、情報化、グローバリゼーション、地球規模での市場経済化などが一気に加速した。政治的には、ポスト冷戦時代の新しい国際秩序の構築を模索するときを迎え、社会的には、移民の増大や一層の南北格差の拡大、そして地球環境問題の切迫化などの挑戦を受けている。
この新たな変化に、日本はどのように応えていくのか。受け身ではなく、自らの主体性と自発性で、能動的に国際的責務を果たしていくべきではないか。新しい世紀にふさわしい国家戦略の確立と展開が求められている。
国内にあっても、経済の長期低迷のみならず、倫理観の変化や教育の荒廃を受けて、安心・安全・効率の社会が脅かされている。遺伝子治療やいわゆるインターネット革命がもたらす新型社会犯罪の発生などのように、「未知との遭遇」ともいうべき新たな不安にも直面している。政治の分野では、政官業の癒着を生み出してきた中央集権型国家から市民参画型の分権型社会への転換が求められている。自由な市場の活性化と同時に、市場の暴走を制御する新たなルール作りも必要だ。
私たちは、戦後日本が自分たちの憲法を制定する歴史的場面に立ち向かいながら、自ら持てる知力のすべてを出し尽くし、その成立のために実に生き生きとした議論を戦わせてきたことを知っている。いま一度、この国の活力を信じて、日本という可能性に充ちた社会の再生に向け、活気ある憲法論議を巻き起こし、21世紀の新しい日本にふさわしい憲法のあり方を大いに議論するときを迎えていると思う。
そもそも、国のかたちの骨格をなす憲法は、世界の変化にも動じない普遍的な原理をうち立てるととともに、新しい課題にも対応できる優れた対応力・包容力も持っていなければならない。常に歴史を振り返り、新しい課題に挑戦する進取の気風をもって憲法をも議論のテーブルにのせる能動的な姿勢が、いま必要だと考えている。
日本国の憲法をどのように議論すべきか。それについて、私たちは、第一に、日本という国のあるべき姿を描き、第二に、その望ましい姿を構造的に創りだす基本法としての憲法のあり方を検討するべきだと考えている。
ここに提案する草案は、そのための議論の素材として、新しいビジョンを提起し、この国のあり方の方向を示し、そして憲法について私たちは何を討議すればよいのかを投げかけるためのものである。民主党が主張する「論憲」を真摯に推し進めるための問題提起にほかならない。
U.21世紀の新しい日本のかたちを創り出すために
1.豊かな可能性を持つ国・日本を生かす。
日本は、長い歴史と豊かな自然と変化に富んだ四季に育まれた文化や伝統を持つ魅力あふれる国である。この国には、世界に誇ることのできる勤勉で誠実な人々がいる。この優れた特性を生かし、国民と共に、21世紀の新しい日本、「最良の国・日本」を築いていくべきである。
しかし、今日の現実は、長い不況と将来への強い不安から、日本社会は黄昏時を迎えているのではないかとの声を生み出している。日本はかつての元気をなくし、自信喪失に陥っているかのようであり、少子高齢社会の到来や終身雇用制の動揺、急速な情報社会化、市場主義の蔓延が国民生活の将来に不安をもたらし、これに教育の荒廃やモラルの崩壊、猟奇的犯罪の発生などが伴って、このままでは、日本社会の土台が崩れるのではないかとの不安も生まれている。
この国にいまもっとも必要なことは、社会の再構築だと言わねばならない。経済の停滞も深刻であるが、長期的には日本社会の基礎体力の衰弱そのものが課題となっている。経済はもとより、この「社会の再生」にチャレンジすることが、いまこの国に最も求められている課題である。
社会の再生なくして、少子高齢社会に対応する社会サービスの確保も、市場社会や官僚世界に蔓延しているモラル・ハザードの防止も、教育再興も実現することはでない。いまこそ、「強靱な社会の構築」が何よりも優先されなければならない。
個人の自立と確かなモラルによって支えられた共同社会(コミュニティ)に基礎を置き、国民一人ひとりの自由な創造性が発揮される社会、すなわち「最良の国」日本の実現を私たちはめざすべきである。世界に向けても、日本は、「最強の国」でも「最大の国」でもなく、文字通りの「最良の国」になることを高らかに宣言することが必要だ。それは、世界の国々や人々から信頼され、世界とともに行動する日本となることに他ならない。
国のかたちを構想するとき、何よりも必要なことは、国民と国民のエネルギーを信頼することから始めることである。時代の転換期に臨み、社会の再生に向けて改革すべき点を大胆に変革する勇気と、国民に基礎を置いた新しい政治が確立されるならば、日本は生まれ変わることができると私たちは信じている。
日本は、実に可能性に満ちた国である。古代以来、中国・朝鮮半島やオランダ、南東アジアなどとの交流を経て豊かな文化を築き上げ、近代においてもヨーロッパ先進諸国の文物を積極的に輸入しつつ日本文化に一層の厚みを創り出してきた国である。それは、対立と排除の文化ではなく、「融合の文化」、「重ね合わせの文化」であり、いわば絶えずそのイノベーションを受け入れる「寛容で柔軟な文化」であった。ここに、いわゆるリベラリズムの源流を見ることができる。この多様性に満ち、新しいものを受容する進取の気風あふれる「柔軟な文化」を糧に、その可能性を新しい時代に向けて切り拓くならば、必ずや世界にも誇れるすばらしい「最良の国・日本」を創造することができると確信している。
2.個人の自立と共同による「社会の再生」をめざす
私たちは、不公平を拡大し、人々に不安と不満をもたらす弱肉強食社会に通じる「市場万能主義」にも、依存心を増長し、個人の尊厳と自立した人格の破壊に通じる「福祉国家至上主義」にも与しない。市場原理の機能を強く支持しているが、社会と政治の積極的役割についても重視している。特に、市場主義と利己主義の行き過ぎは社会のモラル基盤を危ういものとし、不公正や不平等を放置するゆがんだ構造を創り出すことにもなる。
私たちは、個人の選択の自由を広く容認しつつも、ルールを守ることや社会を支えるモラルを大切にする立場に立つ。
21世紀は、国際人権の時代とも言われている。世界のどこに暮らす人々であっても、大量の人権侵害が繰り返される状況については、国際的な規模でこれを防止しその支援を行う時代である。私たちは、日本がそうした国際活動に率先して大きな役割を果たせることを望んでいる。国内外を問わず、人権や個人の尊厳が尊重される新しい社会の姿を追求していく。
私たちは、個人の自由な選択が保障される社会の形成につとめる。それとともに、国民生活の安心と安全が守られるセーフティネットの整備に徹する。「経済には可能な限りの自由を、生活には最大限のセーフティネットを」である。「自由で安心な社会」の構築が私たちの基本目標なのである。
これからの日本は、人と人、男と女、国と国、人間と自然等の間の「対等」「互恵」を基本に、「自立」と「共生」が織りなす社会の実現をめざしていくべきである。「自助」も「公助」も必要だが、何よりも人々が互いに結び合い助け合う「共助」の世界を大切にする社会を築くべきである。
これらの基本理念を形に変えるため、私たちは、新しい政治手法として、「新・民主主義」の確立を提唱したい。政府にすべてを依存し、行政の対象者として位置づけられた受益者民主主義や請負型民主主義を脱却し、義務よりまず権利が先行するという戦後民主主義の弱さを克服して、人々が共に支え合い、すべての分野で「国民一人ひとりが主役となって自ら参画し責任を負う新しい民主主義」の時代を切り開くことである。
3.分権連邦型国家を創り出し、新しい民主主義を確立する。
私たちは、21世紀日本の姿は、分権連邦型国家でなければならないと考えている。明治維新以降のわが国は、文明開化・軍国主義・戦後復興という三段階のプロセスを通じて、欧米に「追いつき追い越せ」という目的の下、中央政府が権力を独占し、地方自治体は、その補完的役割を担わされてきた。しかし、権力の集中を必要とするキャッチアップが実現されたことで、その役割も終わりを迎え、今日では官依存の風潮を残す弊害だけとなっている。
いまや、個々の住民の多様なニーズに対応でき、住民による参加と監視がより容易である地方自治体こそが、行政の主役としての地位を占めるべきときである。「地域のことは地域で決める」「自分たちのことは自分たちで決める」という国民主権と民主主義の原点に立ち返り、「分権連邦型国家」への転換を大胆に進めていくべきだと考える。
また、国民の「知る権利」に基礎を置いた情報公開の徹底があって初めて民主主義が十分に機能し、国民の自由な力が発揮できる。分権改革と情報公開の徹底は、まさに、新・民主主義革命にとって不可欠な条件である。
政治が行政をコントロールし、その政治を国民が選挙を通じてコントロールすることによって、初めて「国民主権に基礎を置く政府」が実現する。時代はいま、必要な改革を迅速に実施する強い政治のリーダーシップを求めており、国民はまた、政策決定過程が透明で、官僚の抵抗によって改革が骨抜きにされることなく、国民のための政治が展開されることを望んでいる。首相権限の明確化、政治主導の省庁運営の確立、行政監視能力の強化、さらなる情報公開の実現、行政改革の徹底推進などを可能とする新たな統治制度を検討すべきである。
4.国際社会と協働する「平和創造国家」日本をめざす。
私たちは、国際社会を与件として、これに依存する国の姿をかえなくてはいけないと考えている。日本は、これまで日米関係を重視するあまり、自前の対外政策と自己主張を持たず、世界の国々から「顔の見えない国」として見られてきた。しかし、日本は、世界平和の中でしか生きられない国である。資源小国であり、国際交易の利益を大いに享受している日本にとって、世界平和はまさに国の存立基盤そのものなのである。それはまた、国際平和と国際社会に信を置き、未来を切り開くことを決意した戦後日本の出発点でもあった。
「平和を享受する日本」から「平和を創り出す新しい日本」へ、すなわち「平和創造国家」へと大転換していくことが重要である。
とくに、国連の効率的体制の確立に日本自らその積極的役割を果たすとともに、国際平和の創造により有効な活動ができるよう国連活動の活性化に取り組んでいくべきである。
冷戦時代の終わりとともに、世界に開かれた海洋国家でもある日本は、自らの創意工夫で、新たな地域的平和秩序の形成に挑んでいくべきときを迎えている。とりわけ、「アジアの中の日本」の地位と役割を明確にし、アジア太平洋地域における外交的リーダーシップを発揮していく必要がある。
今日の世界は、いわゆるグローバリゼーションの大波の中で、民族や国境を越えたコミュニケーションを促進する一方、米国もしくは先進国の「一人勝ち」状態を定着・加速させ、地球規模の不公平と不安を拡大している。こうしたことが、他方でのリージョナリズム(国境を越えた地域主義)やローカリズム(地方主義)、民族主義の復興、原理主義の活性化をもたらしている事実にも目を向ける必要がある。
私たちは、平和主義と人権保障を掲げ、経済的な先進国でもある日本が、このグローバリゼーションが生み出す地球規模の新たな課題にも果敢に挑戦し、その解決に向けて率先して取り組む国となるのを望んでいる。
今日における憲法論議の前提条件と基本的な課題
憲法は、その国の「統治機構」のあり方および普遍的な「人権保障」を明示し、その下における国のかたちを方向づける基本法である。わけても近代憲法は、「国制」選択の結果を確定する重要な役割を担ってきた。すなわち、君主政体か共和政体か、国権主義か民主主義かを決する重大な意義を近代憲法は担い続けてきた。
従って、それは第一義的に、「国民国家の創設」もしくは「再建」の基盤的枠組みとして機能するものとされてきた。すなわち併存する国家間対立の世界における国の独立を確保するという歴史的使命をも担って、国民統合の実現と国民主義(近代ナショナリズム)を形成する枠組みとしてそれは機能してきた。近代日本では、明治の大日本帝国憲法、戦後の日本国憲法制定時に直面した歴史的局面である。
しかし、21世紀初頭における憲法論議は、そうした国民国家創設及び再建の時代とは異なる国際政治もしくは国民的課題に直面している。
そもそも、それはいまや「国制」の選択として役割を期待されてはいない。少なくとも、成熟した産業国家においては、民主主義は国と国民生活の与件であり、国民国家という枠組みを確保するという課題はもはや過去のものとなっている。第二に、国という枠組みの下で、ナショナリズムを発揚し、国民意識とその共通言語=国語を確立するという歴史的使命もまた、過去のものである。
そして、こうした事情が、今日の憲法論議を激しいイデオロギー対立とは異なる次元での、いわば政策的・戦略的レベルでの論争スタイルを求めている背景ともなっている。われわれは、国粋主義に立ち返る守旧的な憲法論議にも、憲法論議をあたかも国制選択の問題として和解できないイデオロギー対立の問題としてのみ取り扱う思考にも組みしない。
では、今日における憲法論議は如何なる視点から展開されるべきであろうか。以下の諸点について、その基本的方向性を整理する必要があると考える。
1.新しい課題と国家の役割についての再定義
私たちは、いま、地球環境問題やグローバリゼーションの光と影、個人の自己決定の尊重とモラルの確立、表現の自由と映像及び言葉の暴力とのバランス、政府の統治能力の向上と参画型政治の促進、そして国家主権の重視と国際協調の実現など、様々な新しい課題の挑戦を受けている。
そこで、最初に、21世紀初頭における日本が直面している新しい課題に対して、国家はいかなる役割を期待されるべきかを論議する必要がある。とりわけ、以下の5つの課題について再整理する。
(1)グローバリゼーションと国家の役割
21世紀の新しい国家は、国内の安心と安全、繁栄と公正の確保に責任を負うと同時に、国際社会における社会的公正と人権の保障、平和と安全の確保、地球規模のバランスのとれた繁栄に大きく寄与するものでなければならない。
情報化の加速とともに急進展するグローバリゼーションは、二重の課題を突きつけている。問われているのは、一つは、国家もしくは国境の稀薄化であり、いま一つは、新しい国際協調のあり方である。グローバリゼーションの陰の部分を補い、光の部分を促進する国家の役割を明瞭にすべきである。<国民益>と<国際益>との調和を積極的に考慮すべきである。
(2)市場と国家の役割
私たちは、自由な市場のための環境整備を優先する。しかし、国家には、その市場経済がもたらす弊害をコントロールし、国民の安心と人間的豊かさを保障する義務があると考える。
明治の近代国家創設以来続いてきた開発途上国型の国家運営は終わらせ、「市場のことは市場に委ねる」と同時に、明快なルールに基づく政府と市場の運営を確立すべきである。しかし、市場の弊害から人々を守る新たなルール作りを進める必要がある。また、ルール違反に対しては公正厳格であるための仕組みを確立するべきである。それとともに、十分に整備されたセーフティネットの確立を政府の責任として明示する。
(3)地域及び個人の自己決定と国家の役割
自由主義の立場に立つ私たちは、地域及び個人の自己決定が何よりも尊重される社会を創り出すことが国家の責任だと考える。これからの社会に必要なのは、個人や地域をいわば上から保護するのではなく、その自立を支援する政府の実現である。また、国民の知る権利や環境権などのほか、生命倫理、情報倫理の確立など、いわゆる「新しい権利」の確保についても検討する必要がある。
ただし、例えば、尊厳死の受容と生命の尊重の両立をどう考えるのか、個人の自己決定とコミュニティの維持・発展との関係をどうはかるのか、など困難な課題に直面している。個人の自己決定と併行してコミュニティの維持・促進についても政府は責任を持ち、性の解放とモラルの確保、情報の自由と表現の暴力の抑制など倫理的問題について公正な関与が可能な仕組みについても検討する必要がある。
(4)国家とアイデンティティとの関係
国民一人ひとりのアイデンティティを一つのものに限定することはできないし、望ましいことでもない。この前提に立って、日本人及び日本国としての統一したシンボルの確立と尊重を促す必要がある。
このためいわゆる国旗・国歌問題については、新たな次元で議論を起こし、新しい時代にふさわしい日本のシンボルとして明記し定着させていくことが望ましい。また、戦後50余年定着してきた象徴天皇制はこれを維持する。
ただし、国民のアイデンティティは、国際共同体、地域社会、ネットワーキングなど多重複合型のものへと連なることを明示することも必要である。
(5)国家と国民との関係
国民主権は、いかなる時代においても普遍的なものである。同時に、国際社会と国民利益との調和に配慮し、より賢明な選択ができるよう国家はその役割を果たす必要がある。
このため、国民投票制度やオンブズマン制度など、代表制と国民参加を同時に生かすことのできる新たな仕組みの創設を検討する必要がある。また、地域分権を促し、国民の直接選択や直接参加の機会を飛躍的に拡大する方向をめざす。このため、分権連邦型システムの構築を検討する。
2.憲法の最高法規性と根本規範の再定義
日本国憲法の根本規範たる「平和主義」「国民主権」「基本的人権の尊重」は、今後も遵守する。しかし、「国際協調主義」「権力分立」についてその明確化または再定義する。また、国家主権のあり方については、国際社会及び国際法との関係を考慮してその相対化を再検討する。
(1)国際法規と憲法との関係
国際社会との協調と共生が歴史の流れとなっている今日、「主権の移譲」を含めて、国際機関と国家のあり方について抜本的に見直す必要がある。日本は、国際社会の責任ある一員として、その積極的な役割を果たしていくことを内外に宣言すべきである。
20世紀後半の世界は国際法秩序が整備された時代であり、各国の憲法も、そうした国際法体系の中で位置づけられ、歴史的・政治的意味を持つようになった。憲法は、国内にあっては「最高法規」としての性格を保有しつつも、国際法体系の中では「一つの法規範」に過ぎないとも言える。具体的に、EUでは、ヨーロッパ共同体法が各国憲法やその他国内法の上位法として機能している実例が少なくない。日本の憲法論議においてもこの観点からの議論と再検討が必要である。
(2)普遍的な法としての人権保障と憲法
私たちは、日本を人権保障を促進する国として自らを位置づけ、率先して基本的人権の確立に取り組むべきだと考える。特に、先進国と途上国との人権格差を是正する環境整備において主導的な役割を果たし、世界に誇りの持てる国づくりをめざすべきである。
人権については、フランス人権宣言以来、国際人権法がその法的規定を行っており、各国にあっては憲法及びその他の国内法によってその具体化を裏付けるという形になっている。それは、一国の憲法といえども合理的な理由なくして普遍的な人権を制約することはできないとの国際慣習が広く定着していることを示している。日本国憲法が規定する人権条項も不断にその国際人権保障との関係において再吟味されなければならない。
わけても、人権の前国家性をどう理解するか、プライバシーの権利、環境権、自己決定権など「新しい人権」についてどう規定すべきか、表現の自由とその限界についてはどうか、多文化社会におけるマイノリティの人権はいかにして確保されるか、そして人権保障機構のあり方はどうするか、等々の課題に挑戦する必要がある。
(3)権力分立及び統治機構のあり方と憲法
中央集権型の政治・行政システムと決別し、分権型の政治・行政システムへの転換を推し進める。同時に、転換期にふさわしい政治的リーダーシップが可能な仕組みを確立するとともに、国民参加の新たな制度化を促すべきである。
その国の民主主義の仕組みや統治機構をどのように定めるかは、極めてドメスティック(国内的)な問題である。従って、この点でいくつかの先進事例の参照を求めることはあるとしても、国際法によって強い規定を受けるということは基本的にあり得ない。その基本は国民の創意工夫に委ねられている。
いわゆる権力分立の考えをどう捉えるか、首相公選制の議論とともに議院内閣制について如何に再整理するか、首相の権限についてはどうか、議会の二院制はそのままでよいか、政治(内閣)と行政との関係をどう解釈するか、あるいは国民投票制度導入を進めるべきか、等々を是非検討すべきである。
同時に、分権連邦型国家への転換をどうはかるのか、憲法8章にいう「地方自治の本旨」とは何か、地方公共団体の二層制はこのままでよいか、中央政府と地方政府との関係はどうすべきか、基礎自治体の単位はどうするのか、等々の課題にも応えなくてはいけない。
(4)国権の発動としての安全保障政策の制約と憲法
日本は、国権の発動としての「戦争」の放棄、「武力行使」の禁止を高らかに宣言し、国連傘下の国際紛争解決には積極的・主体的にその役割を果たすことを明瞭に謳うことが必要だと考える。
日本国憲法は、「国権の発動」としての「武力の保持及び行使」を原則禁止している。これは国連憲章の基本原理に沿うものであり、国際紛争の解決は基本的に国連を中心とする国際機関の行動に委ねるとした思想に立つものである。したがって、日本が国連加盟国としての行動原則を優先する限りにおいて、国権の発動としての武力の保持及び行使について自ずと強い制約が存在すると理解すべきである。しかし、このことと日本の国益を考慮し、一国として如何なる安全保障政策を選択すべきかといった論議とは必ずしも相反するものではないし、それは国際連合憲章との整合性の中で実際的に構想されるべき課題である。
とりわけ、近年新たな意味でクローズアップされている国際平和維持活動(PKO)について日本はもっと積極的に関わるべきではないか、国連の集団安全保障と日本の役割はどすればよいか、地域的安全保障体制の構築にどう関わるべきなのか、「戦争の違法化」と国連の強制執行型活動との関係をどう捉えるのかなど、検討されるべき課題は多い。
(5)憲法尊重義務と違憲立法審査制の確立
憲法は、国民と政府によって尊重されるべく基本法である。そのためには、国民が憲法に対する高い信頼感を抱くよう工夫することが欠かせない。その条文を可能な限り明瞭なものとすると同時に、その公正な運用を保障する制度的仕組みを十分に確保する必要がある。
わが国における憲法問題の最大のテーマの一つは憲法の具体化を保障する司法審査が十全に機能していないという点にある。このため、憲法の実現に際しては常に「司法の限界」が焦点となり、その「司法消極主義」が問題とされてきた。憲法がその国内の「最高法規」として機能するかどうかはこの違憲立法審査機能によって担保されるべきものであり、独立の憲法裁判所あるいは憲法院の整備を含め、改めて検討・議論すべきである。
最後に、21世紀日本の方向をどう定めるかという国家戦略に関する課題がある。これは例えば「世界の中における日本」「東アジア地域と日本」という国家戦略的課題への回答であると同時に、官僚主導型政府運営から国民主導の政府運営への転換をどう位置づけるかという国のかたちに関する政治選択の問題への回答である。それと同時に、そうした国家戦略・国のかたちに合わせた統治機構もしくは政治指導のあり方を確定する作業に連なるものである。それはまた、21世紀の新しい世紀における日本及び日本人のアイデンティティを方向付ける枠組みともなろう。
首相主導の議院内閣制度の確立に向けて
−第二作業部会−
日本国憲法の国民主権の原理は、国民によって選ばれた議員からなる国会が内閣総理大臣を指名し、その内閣総理大臣が内閣を組織し運営するという仕組みを定着させてきた。そうした日本国憲法の基本原理と規定にもかかわらず、わが国の内閣運営および内閣と議会との関係については、制度的曖昧性を多く残しながら、もっぱら政府の一機関たる内閣法制局の解釈と戦前からの通念によって推進されてきたという問題を抱えてきた。ある意味では、ここに多くの問題点が凝集していると言えなくもない。
たとえば、憲法の統治原理をなす「権力分立」について、内閣イコール行政と議会イコール政治との間の分離・隔離を当然として、本来「政治の領域」たる内閣を戦前の超然内閣のごとき「行政府」の地位に置き、政治の関与を極力排除する解釈をとり続けてきた。また、憲法の規定にも存在しない「閣議」なる用語をもって内閣総理大臣の権限を拘束し、その政治主導を大きく制約してきた。このため、憲法第66条1の「首長たる内閣総理大臣」の地位と権限が形骸化されている側面が少なくない。「閣議」のあり方そのものを再検討する必要がある。
それだけではない。憲法自体に整合性が欠けていることによる課題もある。すなわち、憲法第66条1の「内閣は…、内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する」との条文では、主体が「内閣」となっており、首相(内閣総理大臣)は、その一構成員とされているが、これは本来、「首相(内閣総理大臣)」が内閣を組織するとの能動的規定であるべきものである。このことが、「内閣」が「首相(内閣総理大臣)」の上位に置かれて責任所在が曖昧となる原因となってきた。そもそも、内閣総理大臣は、選挙によって国民の多数の支持を得た政党のリーダーが国会で選任されたものであり、その選任された首相(内閣総理大臣)が国務大臣を指名し、内閣を組織するという首相主導型システムが議院内閣制の姿である。現行の規定は、その点を曖昧にする要素を強く持っていると言わねばならない。
こうした解釈は、議院内閣制の母国イギリスでは当然のものであり、ヨーロッパ大陸における議院内閣制の国ドイツでも採られている理解であって、これらの国々における内閣運営の実際にも沿うものである。
そしてまた、このような議院内閣制の姿は、日本における首相主導の政府運営の実現と深く関わるものである。さらに、この種の議院内閣制度に関する理解は、従前からの内閣法制局的憲法解釈や戦前からの通念とはまったく異なるものであるだけでなく、日本国憲法の様々な規定について疑問を投げかけることを意味する。
例えば、憲法第65条の「行政権は、内閣に属する」との条文は、議院内閣制の趣旨に立てば、本来「行政権は、内閣総理大臣に属する」とすべきとの考えも成り立つ。また、憲法第66条3の「内閣は、…国会に対して連帯して責任を負う」の規定も、主体を「内閣」という顔の見えない機関に置いているという点で再検討が必要となる。とりわけ、憲法第74条のいわゆる「主任の大臣」規定と「連署」規定は、首長たる内閣総理大臣の権限を強く制約するものとして問題となってきた。
私たちは、現行の議院内閣制を維持することを基本に、内閣に関する一連の規定についての再検討を進めるべきだと考える。それとともに、日本の統治機構のあり方と運営に関して、政府による解釈権の独占を排し、独立した憲法解釈と裁決の可能な仕組みを検討すべきであると考えている。
1.首相(内閣総理大臣)主導の政府運営の実現
私たちは、首相(内閣総理大臣)主導の政府運営の実現をめざす。このため、「首長たる内閣総理大臣」(憲法第66条)の実質を阻害する憲法及び内閣法等の規定を見直し、首相の責任と指導性が明確となる法的枠組みを確立する。
そもそも、議院内閣制は、首相(内閣総理大臣)たるに相応しいリーダーが選挙で実質的に選ばれ、国会もしくは大統領・その他の元首によって承認されて任命されるという仕組みである。日本でも、そのような実質を備えるべく90年代に入ってから小選挙区制を中心とした選挙制度改革、それに基づく二大政党型政党システムへの転換促進、および首相主導を補佐する内閣府の設置等の改善を行ってきた。
しかし、今日論議を呼んでいる与党事前審査や憲法規定をも制限する内閣法などによって、首相の権限は実質的に大きく制約されているというのが実態である。曖昧性の残る憲法規定を含めて法制度の抜本的見直しを行い、首相主導型の政府運営のための法的枠組みを確保すべきである。とりわけ、「内閣」を主体とする諸規定を再検討して、「首相(内閣総理大臣)」主体の規定へと変換する必要がある。また、首相公選制の導入などとともに、国民が直接的に首相を選択できるに等しい選挙制度の確立についても検討すべきである。
2.内閣が遂行するのは「行政」ではなく、政治による「執行権」の行使である。
憲法第65条は「行政権は内閣に属する」としているが、ここに言う「行政権」とは本来、例えばカナダ1867年憲法法第2章にいう「執行権」に相当するものであり、日本の行政組織法に規定される「行政」とはまったく性質の異なるものである。「執行権」とは、行政をコントロールし、政治目的に向けてそれを指揮監督する権限を指すものである。
また、この執行権が付与されるのは、日本においては国会で選任された首相(内閣総理大臣)のみであり、国務大臣はその首相(内閣総理大臣)の補佐機関としての地位を持つに過ぎないと解すべきである。従って、憲法第65条に規定される「行政権」、すなわち「執行権」は「内閣総理大臣(首相)に属する」と規定するのが当然と言えよう。この点においても、私たちは、憲法規定における「内閣」と「内閣総理大臣」との組み換えを積極的に行う必要があると考える。
3.二院制のあり方と参議院の役割
私たちは、国会の活性化のための審議のあり方の改善とともに、現行の二院制について思い切った再検討を加えるべきだと考える。国会の活性化については、重要法案についての両院合同審査制の積極活用や与党審査の廃止、いわゆる国対政治からの脱却など国会運営のあり方そのものに関わるものも少なくないが、議会の調査機能の充実や行政監視院の設置などの制度的工夫も求められている。
現行の二院制については役割分担の不明確さの解消が従前から課題とされてきた。現行の参議院の役割を大胆に見直し、例えば、参議院議員の大臣指名の廃止、衆議院における予算審議と参議院の決算審議などの役割分担、また長期的な視野に立った調査権限や勧告機能の充実などを検討すべきである。さらに、衆議院と類似する現行の選挙制度を改め、地域代表制、専門性を加味した選任方法へと改革することも検討の余地がある。
4.政府・与党の一体化と責任の明確化
戦後日本の政府運営は、自民党一党支配が長く続いたことも要因となって、与党と内閣の二元体制が採られてきた。その典型が与党の税制調査会であり、与党審査の現実である。このことによって政府の責任が曖昧となり、首相(内閣総理大臣)によって任命された国務大臣が党と省庁の利害代表として行動するケースもしばしば見られる要因となってきた。
内閣と議会との関係についても、もっぱら与党が野党との駆け引きに対処し、内閣としての議会対応は二の次にされるという状態が続いた。このことがまた、国会に責任を負うべき内閣の姿勢をますます曖昧にする背景となってきたことは否めない。
私たちは、まず、この政府運営の二元構造を排し、内閣の一体的運営と責任の明確化を強く求めたいと考える。このため、内閣以外の議員の行政への関与を厳しく制限し、行政のコントロールに関する内閣の主導性を確保する。同時に、野党の第一党に対して、シャドーキャビネットを義務づけ、一定の範囲での行政への関与を制限的に容認する仕組みを確立することも検討されるべきである。
政府の責任は一義的に国民に対して示されるべきものであり、それには情報の公開、政府の説明責任が不可欠であるが、何よりも政権交代可能な仕組みの充実を欠くことはできないと考える。
5.憲法調査機能の拡充と違憲立法審査制の確立
わが国では憲法解釈の権威を内閣法制局に求めるという奇妙な現象が長く続いてきた。こうしたことの背景には、日本における裁判所の司法消極主義があることは言うまでもない。このためもあって、国民や議会は、裁判所にではなく、内閣法制局に憲法解釈を委ねてきたとの指摘もある。しかし、内閣法制局は政府の一機関に過ぎない。その機関が憲法解釈に権威を振るう姿は権力分立のあり方としても問題が大きいと指摘せざるを得ない。
そこで、私たちは、まず第一に、憲法解釈の機関として立法府たる議会にある衆参両院の法制局を強化し、執行機関の一部局たる内閣法制局を縮小することが必要だと考える。議会における立法作業の強力な支援機関とすると同時に、立法に際しての憲法審査を保障する仕組みの検討も必要である。
次に、日本における司法消極主義の制約を超えて、国民の人権保障と憲法に基づく統治のあり方を確保するため、ヨーロッパや韓国などが採り入れている憲法裁判所もしくは憲法院など、違憲立法審査のできる司法機関を新たに整備することを検討すべきである。
結 語
首相主導の政治を確立するためには、内閣と与党の関係、内閣と議会との関係の見直しと同時に、憲法に規定された「首長たる内閣総理大臣」の権限の明確化と再整理を欠くことができない。そのためには、日本国憲法の規定と内閣法などの再検討も視野に入れるべきである。
また、政府の機能強化と並行して、憲法を保障する違憲立法審査制の確立に早急に取り組む必要がある。
すべての人々の人権を保障するために
−第三作業部会−
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明治憲法の人権条項は、法律の留保も多く、極めて不完全なものであった。戦後の日本国憲法は、当時の国際水準の人権規定を採り入れ、わが国の人権保障を一新した。それから半世紀が経過し、わが国はいま、経済活動のみならず、人権保障の面においても、明治憲法下とは比較にならない進歩を遂げた。この成果は、現憲法の規定だけで得られたものではない。これを使いこなし、社会のすべての場面における人権確立に向けた、市民の不断の努力が結実したものである。
それでもなお、社会の実相を直視すれば、性差別、部落差別なとが残り、適正手続きの保障が不十分な点が残存するなど、国連の人権委員会でも指摘されている通り、なお改革が強く求められる場面が多い。憲法の人権保障の完全実現が求められている。
この半世紀の間、国の内外を問わず、これまでの時代に例を見ない急激な変化あった。これに伴い、憲法制定当初には認識されなかった人権状況が生じてきた。人権が、国家により与えられるものから、自立した市民がみずからの努力により確立するものへと変わると同時に、国家が権力を行使する際の適正手続きの要請が厳しく求められるようになっている。それはまた、人権主体への「説明責任」と「情報の公開」を含むものとなっている。
この中間報告では、これらの変化のすべてを扱うことはできない。そこで、論点を以下の3つの課題に絞り、とりまとめている。
第一は、「新しい人権」に関する議論である。激しい社会変化に伴い当初は予想されなかった権利や利益が広がり、これらを「新しい人権」として憲法による保護を認めるべきではないかとの問題が発生している。また、災害、テロ、凶悪犯罪、エイズなど現代市民生活の不安に対処する「人間の安全保障」も人権の問題として考える必要がある。具体的には、環境権・個人情報の権利・名誉権・人格権・知る権利・日照権・知的所有権・子どもの権利・安全への権利・発展の権利(自己実現の権利)等、憲法に直接明記されていない権利に関しては、人権保障がより明確になることを考慮し、何らかのかたちでこれらの「新しい人権」のカタログを憲法規定の中に採り入れることを検討すべきと思われる。
第二は、「外国人の人権」についてである。外国人の権利保障は、「地球市民」が国際社会、国、地方自治体、コミュニティにおいて有する「連帯の権利」に深く関わるものである。人権の自然権的性質から外国人の人権を保障するという考え方には見解の一致が見られるものの、日本国憲法第3章「国民の権利義務」には外国人の人権は明文化されておらず、外国人の人権保障について憲法解釈も曖昧なままであり、その明確な規定が強く求められている。
憲法における外国人の人権保障を考える際には、世界人権宣言、難民条約、国際人権規約などを有力な基準として採用し、国際人権保障に対応するものが求められる。特に、国際人権A規約に関する委員会は、日本について、在日外国人の社会権保障の実態公表が不十分だと指摘しており、普遍的人権保障の面での立ち後れが問題となっている。
第三に、私たちは人権保障機関のあり方について審議した。1993年国連総会にて採択された「国家機関の地位に関する原則(パリ原則)」では、国際人権法の国内実施を任務とする国内人権機関の指針を示している。それによると「国内人権機関」とは、(ア)国家機関とは別個の機関で、(イ)憲法または法律を設置根拠とし、(ウ)人権保障に関する法定された準司法的機能と提言機能を含む独自の権限を有し、(エ)独立性を持つものとされる。
人権保障は「絵に描いた餅」にとどまってはならない。日本でも、95年ILO156号条約批准、人種差別撤廃条約への加入、96年人権擁護施策推進法の成立、99年人権教育啓発推進法の成立等々、一定の前進を果たしてきた。しかしながら、性差の違いや民族差別等に基づく人権侵害事件は後を断たず、事件内容の複雑化、困難化に直面している。特に人権侵害を受けてきた者にとって現行の司法制度をはじめ人権擁護制度では限界が明らかになっており、適切な救済手段の整備が急務となっている。
1.「新しい人権」の確立について
「新しい権利」のカタログについては多様なものがあるが、ここでは、憲法13条の「幸福追求権」に含まれるとされているものに限定し、典型的なものを特に検討課題として列挙する。
(1)プライバシー権
プライバシーの権利については、近年、情報化社会が急速に進展したことに伴い、より積極的に保護していこうという考え方が支配的になってきた。この権利に関する見解自体も変化し、「自己に関する情報をコントロールする権利」と捉え、公権力に対して積極的に保護を請求する権利と解釈されている。国民が自由に情報を受け取り、または、国家に対し情報の公開を請求する「知る権利」は21条の表現の自由から導き出されるが、個人の情報に関してはプライバシーの点で13条も根拠となっている。これを憲法上の権利として明示することの可能性について検討する。
(2)環境権
国連人間環境会議は、1972年の人間環境宣言の中で「良好な環境の享受は市民の権利である」としている。その環境権は、わが国では憲法25条と13条に根拠を持つと言われている。新しい人権として早くから主張され、相当数の訴訟もあるが、「環境権」の名称の下にこれを正面から認めたものはない。環境権の内容を「良い自然環境を享受する権利」として定義するか、「文化教育、歴史的なものの環境をも含む権利」として定義するのかが、対立しているからである。
この環境権を明確に定義し、法的権利として確定するための作業を進めて、憲法上の権利として明示すべきかどうかを検討する。
(3)自己決定権
自己決定権とは、公権力から干渉されることなく、個人が自らを決定できる権利で、自己の生命・身体の処分に関わる事柄(臓器移植、延命治療、安楽死の可否など)や家族の形成・維持に関わる事柄がある。「自己決定」といっても人は集団の一員として暮らしており、生活選択には制限があるとも考えられる。これはいずれも、21世紀にはますます大きなテーマとなることが予測されるものであり、その法的権利性を明確にすることが求められている。
2.憲法における外国人の人権保障のあり方について
(1)外国人の登録及び再入国について
外国人の登録証明書の常時携帯義務については、一般永住者、在日韓国・朝鮮人などの特別永住者への適用は廃止すべきであると考える。また、国際人権A規約に関する委員会は、日本に対して、出入国管理及び難民認定法第26条の再入国許可要請の必要が日本に生活基盤を持つ外国人の出国、再入国の権利の剥奪を招くおそれがあるとし、再入国許可要請の義務づけを除去することを勧告している。外国人再入国制度についても見直すべきである。
(2)外国人の受験差別問題
民族学校卒業者には大学受験資格は与えられず、大検を受けなければならない。これに関しても、上記の国際委員会は、日本に対して、外国人児童への母国語教育を行うよう勧告している。民族学校を公式に認定し財政補助を行うこと、それらの学校の卒業資格を大学入学試験受験資格として認めることなどを、憲法第14条の「法の下の平等」の原則に照らして検討する必要がある。
(3)地方自治体における外国人の参政権問題・住民投票問題
最高裁は地方参政権を認めるかどうかは憲法上禁止されるものではなく、国の立法政策に関わる事項と判示している。しかし、地域住民としての義務を果たしている永住外国人の地方参政権を制限する根拠は乏しく、人権保障の観点からも問題は多い。、地域公共団体の構成員である外国人が住民投票に参加する権利を保障することと併せて、基本権としての整備が必要である。
(4)外国人の法的地位と国籍要件問題及び難民受け入れ問題
国籍要件のある法律は多くはない。しかし第二次世界大戦の戦争犠牲者に対する援護法関係には国籍要件を含むものが多数あり、当時日本国籍を有していた在日韓国・朝鮮人たちの人権保障の面でも問題があり、見直すべきである。また、日本は「難民条約の地位に関する条約」(1951年)を批准しているが、その認定が厳格すぎるため法の実効性が保障されていない実態にあり、普遍的人権の観点からも問題が多い。世界に開かれた国としての法整備が必要である。
(5)その他の外国人の人権問題
日本では、外国人母が不法滞在者であるため、婚姻届、出生届が提出できず、子どもが保護を受けられないという反人権保障の状態が続いている。この現状は、日本が批准した「子どもの権利条約」とは矛盾するものであり、早急にその改善が求められている。また、日本人の配偶者等となっている者がその日本人が死亡した場合在留資格がなくなるという法の空白部分についても検討すべきである。さらに、外国人が受けられる公的医療保険に加入している割合は低い事実も人権保障の観点から問題となっており、日本は、国連、ILOなど外国人のセーフティネットのための国際規約の批准を急ぎ、同時に国内法の整備を進めるべきである。
3.デュープロセスと人権保障機関
(1)公権力による人権侵害について
公権力による人権侵害からの救済こそが、デュープロセスの要請に基づく人権委員会設置の要諦とされる。しかし、政府は「差別・虐待」以外について、他の不服申立制度がある場合そちらに譲るとする方針に立っている。私たちは、公権力によるあらゆる人権侵害事象を救済対象とし、内閣府設置の3条委員委とすることと併せて、内外からの人権救済の要請に応えるべきだと考える。
(2)禁止される差別事由の拡大整備
人権救済の対象となる「禁止される差別事由」を、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産、収入、年齢、言語、宗教、政治的意見、性的指向・性的自己認識、皮膚の色、婚姻上の地位、家族構成、民族的又は国民的出身、欠格条項、身体的・知的障害、精神的疾患、病原体の存在、遺伝子などに拡充し、憲法上の人権カタログに明記することも検討すべきである。
(3)人権委員会の設置など人権保障機関の整備
中立公正性を制度的に担保した独立した実質的な人権委員会を創設する必要がある。このため、憲法の人権保障に根拠をもち、国家行政組織法第3条に基づく委員会を内閣府に設置すべきである。また、違憲立法審査制を整備して、違憲状態の放置を許さず、人権保障をより確かなものとする仕組みを確立すべきである。
分権型社会の実現をめざして
−第四作業部会−
日本国憲法は、その第8章「地方自治」で、日本における地方分権の尊重をうたっている。戦後日本は、この精神を踏まえて、とりわけ基礎自治体たる市町村の完全自治体化を保障するとともに、都道府県知事の直接選挙による選出を導入した。地方自治体に対する中央統制についても、「地方自治の本旨」によって制約があることを明示し、極端な中央集権の復活を抑制している。
しかし、機関委任事務を通じた長い間の中央政府による行政的コントロールが続いたことに加えて、課税自主権や財政自治が保障されずに、補助金による強い制約を受けてきた。また、地方自治体の組織権についても様々な制約が課せられており、日本の政治・行政の中央統制体質が温存されたまま、今日に至っているというのが実情である。
こうした制度的・行政的限界の他にも、新たな政治・行政課題が「地方自治の形骸化」を促進するという現象も生じた。いわゆる福祉国家化や国をあげての産業近代化の推進とともに、政治・行政の官僚化も進行し、中央政府による地方のコントロールが一層強化されるという事態を招いたことも否定できない。
私たちは、こうしたことが、日本における地方自治の定着を阻害し、諸個人や地域の自己決定と自己責任に基づいた民主主義の発達を先送りさせてきた要因だと考える。グローバル化が進む中で、この国に民主主義を深く浸透させ、その新しい政治文化のもとに「自治の精神」を培っていく試みが求められている。そして、いま、この考えに基づき、文化やコミュニティに根ざした日本型「分権型社会」への転換を実現したいと考えている。
民主党は、党の基本方針の一つに「分権連邦型国家の実現」を掲げている。国民一人ひとりの自己決定を尊重し、その意思を大事にする参画型社会の実現には、地方自治の確立を欠かすことはできない。私たちは、「地域のことは地域に暮らす人々が決定する」という原則のもと、日本の国のかたちを大胆に組み換えることを強く熱望する。
ただし、日本は、米国やドイツのような連邦制国家ではなく、イギリスやイタリアと同様の単一制国家である。そして、議院内閣制と権力分立による節度ある統治機構を有する民主主義国家であり、「地方自治」が憲法によって保障された国である。従って、単一国家としての枠組みを当然の与件としつつ、能う限りの「地方自治」を制度的・政治的・社会的に実現することを目標としたい。
1.中央政府の役割を限定し、地方政府の自主性を確立する。
日本における地方自治の確立のために、まず基礎自治体でできることは地域の基礎自治体に、その上で必要な広域行政については広域自治体に、そして中央政府は国として直接責任を負うべき業務に限定するという「補完性の原理」を優先する。このため、中央政府権限限定法(仮称)を定めるとともに、憲法にもその内容が明示されるよう検討する。
また、現行憲法第8章第92条の「地方自治の本旨」について、その内容をできるだけ明確にして、地方公共団体の組織及び運営に関する立法権の恣意的制約をなくし、中央政府の一方的な関与を排除できるようにする必要がある。併せて、自治体の課税自主権、財政自治について明記することも検討されるべきである。
2.国・地方紛争処理機能の整備と地方参画制度
中央政府・地方政府間および地方自治体間の調整と紛争の処理については、権限を有する第三者機関を設置する。現在、地方分権推進委員会の提言を受けて、「自治紛争処理委員会」の制度が発足しているが、当事者間の同意を原則とする協議制が中心の同制度の改革を含めて、将来的には、違憲立法審査制の適用を視野に入れた調整・勧告・裁定の機構を整備すべきである。特に、憲法には、こうした中央政府・地方政府間及び地方自治体間の紛争処理を想定した規定が欠けており、その規定の成文化についても検討する必要がある。
同時に、地方政府が中央政府の意思決定に参画できる仕組みを工夫し、それを参画権として保障する規定の整備の検討が必要である。
3.地方自治憲章の導入と制度化
1980年代以降、ヨーロッパの多くの国で「分権改革」の動きが大きな波となった。フランスやベルギーで「地方分権法」が成立し、イギリスでは「分権」が政府の課題となってスコットランドやウェールズの自治権が飛躍的に拡大された。スイスやアメリカで導入されていた住民投票制度がヨーロッパ各国に波及していったのもこの頃である。国際自治体連合やヨーロッパ地方自治憲章が、地球規模での分権改革の推進が普遍的課題であることを宣言するとともに、地方自治体が自らの憲法たる「憲章」を持つことを奨励している。日本においても、地方自治憲章を地方自治の要として位置づける提言が生まれている。
地方自治体が、自律した政府を持ち、自前の統治機構と住民自治によって自治の実現をより確かなものとするためにも、これらの自治体憲章の意義は小さくないと思われる。憲法や今後の地方自治基本法(仮称)の中にこの「憲章」を明確に位置づけることも重要である。
4.地方自治体のあり方の再検討
現在の地方自治体は、歴史的・政治的経緯もあって画一的で多様性に乏しく、地方自治をもっばら「行政」のあり方としている傾向が強い。地方自治は、まさに政治そのものであり、民主主義の発現と運営そのものである。地方自治体行政の経営的効率化とともに、多様な参画システムの導入とコミュニティ・レベルにおける住民自治の実現に十分配慮すべきであり、基礎自治体のあり方についてもこの観点からの議論が不可欠である。この点、分権改革の波が大きなうねりとなっているヨーロッパの基礎自治体が、日本のそれと比較して小規模であることの意義を再確認する必要がある。
5.地方政府の多様性の実現
戦後の地方自治体は、首長と地方議会議員とを直接選挙で選ぶという画期的な制度を採り入れており、このことが、地方自治を政治的に保障する仕組みとなってきたことは言うまでもない。しかし、その運営制度が画一的で、変化に乏しく、行政主導の総与党体制という副産物を産み落としてきたことも否めない。
このような画一性を排し、ヨーロッパの国々で見られる議院内閣制型の政府運営、アメリカのシティ・マネージャー制度、あるいは住民総会制の導入など多様な政府形態が可能な仕組みに転換する必要がある。さらに、様々な住民参画制度を整備して、「民主主義の学校」(ブライス)に相応しい地方自治の実現をめざす必要がある。また特に、首長の権限行使が可能な補佐機能についてその整備を検討し、憲法もしくは基本法に明記することも併せて検討すべきである。
結 語
以上の構想に基づき、地方自治に関する憲法的規定の再整備を進めるべきと考える。
PKOの変容と日本の参加について
−第五作業部会−
第五作業部会は、(1)国連憲章と日本国憲法、(2)集団安全保障と自衛権、(3)日米安保と日本国憲法、(4)PKO変容と日本の参加、(5)地域安全保障体制の構築、(6)自衛隊の役割、(7)国際援助活動等、を主なテーマと定めている。
ここでは、(4)の『PKO変容と日本の参加』に論点を絞って中間報告を行なうものである。
1.国連平和維持活動に対する基本姿勢
平和創造国家・日本にとって、国際連合の活性化とその効率的体制の確立は最重要の課題の一つである。国際連合の現実に理想からかけ離れている部分があることは否定できない。しかし、只今現在も平和の破壊や不正義が地球上に存在し、無辜の民が苦しんでいることを思う時、国連の不完全さを理由に傍観者然と振舞うことは許されない。国連の現実を直視しながら、国連活動の実践を通じて、憲章が規定する理想の姿に国連を近づけていく道を、私たちは選びたい。
日本は平和の実現に向けた国際秩序の構築に参加していくべきであり、国連PKOをその一つの手段として積極的に活用することを国家戦略として明確に位置付けるべきである。本中間報告は、伝統型PKOはもちろん、平和構築型や平和強制型、複合型PKO等、あらゆる種類の国連PKOに参加する選択肢を日本が持つことを提案する。
(1)国連平和維持活動(PKO)は、国連憲章上に明文上の規定はないものの、憲章第6章の平和創造と憲章第7章の平和強制の中間的性格を持ち、「憲章第6章半の活動」と呼ばれてきた。1948年以降、多くの地域紛争の拡大防止に重要な役割を果たしてきたのみならず、難民の大量発生やジェノサイド等、人道面での挑戦に対しても重要な役割を果たしている。国連PKOを万能薬と考える飛躍は戒めなければならないが、国連憲章の規定する理想的な国連軍が存在しない今日、国連PKOは国連が正当性を付与した集団安全保障メカニズムを構成していると肯定的に評価できる。
(2)冷戦後、敵対行為が事実上存続する状況にあっても国連憲章第7章の下に活動する、平和強制型とも呼ばれるPKOが増加しており、国家間の停戦を前提 に停戦監視等を行なう伝統型PKOと比べ、質的な変化を見せている。こうした新しいPKOについても、「平和に対する脅威、平和の破壊および侵略行為」に関して国連が暫定措置、非軍事的措置、軍事的措置を取ることを規定する憲章第7章の精神に鑑み、集団安全保障活動として正当性を持つと考える。
(3)日本は、国連PKOへの参加に当たっては、国連が規定するすべての種類の任務を果たせるようにすべきである。ただし、国連PKOへの参加を日本の義務と捉えることはせず、我が国が特定のPKOに参加すべきか否かは日本の自立的な政策判断によると考える。
(4)日本が国連PKOに積極的に参加することについては、近隣諸国の理解を得られやすいと考えられる。また、関係国と協働してPKO活動を行なうこと等を通して、信頼醸成措置(CBMs)としての役割も期待できる。
(5)日本の安全保障に関係する場合等においては、国連PKOへの参加が国益の観点から重要となるケースが存在することにも留意する。
2.現状の問題点
私たちは、前章で合意された方向性と既存の日本の法制度との関係についても併せて検討した。その結果、我が国の現行法制度のもとに国連PKOへの全面的参加を実現することは困難であり、現行の法制度及び考え方を抜本的に見直す必要があるとの認識で一致した。特に、敵対行為が予見される平和強制型PKOへの参加と、国連基準での武器使用の2点が集中的に議論された。
(1)敵対行為が予見され、強制色の強いPKO
平和強制型PKOは、安保理決議が当該状況を「国際の平和と安全に対する脅威」と認定し、国連憲章7章のもとに活動することを宣言した上で、派遣されるPKOに「あらゆる必要な措置」を取る権限を付与するなど、強制色を強めている点に特徴がある。停戦合意そのものの存在が不明確であったり、停戦合意の有無に関わらず、戦闘行為が散見される状態で派遣されたりすることも珍しくない。近年の例では、ボスニア、ソマリア、クロアチア、シエラ・レオーネ、東ティモール、コンゴ等のPKOがそれにあたる。
現行の憲法解釈によれば、戦闘行為が予見されるPKOに参加することは、PKO部隊(自衛隊)が国際紛争の引き金を引く可能性を排除できないこと、及び、その際に自衛隊の活動が「自衛のための必要最小限度の実力の行使」を超える可能性があることから、憲法9条との関係で問題があると考えられている。従って、99年時点でのUNTAET(東ティモール)への参加を含め、平和強制型PKO(実際には複合型PKO)への参加を我が国は見送ってきている。
私たちは、事実上の敵対行為の存在の有無に関わらず、また、国連憲章7章の下に行なわれる強制力の強い活動あっても、国連安保理等で正当性が付与される限りは、国連平和維持活動への参加が可能となるよう、我が国の法制度に関する今後の議論を整理すべきであると意見を集約した。国連平和協力法のPKO参加5原則との関連では、停戦合意を除外することを含め、受入同意、中立性原則、撤退原則の見直しが必要である。それに付随して憲法上の整理を行なうことも避けられない。
(2)国連基準による武器使用
国連がPKO活動で予定する武器使用は、自衛目的に限定される。しかし、その意味するところは、(1)自己、その他の国連要員、もしくはその防護下にある人々及び地域を防衛すること、並びに、(2)部隊の任務遂行に対する妨害を排除すること、の二つに分かれる。(後者を「任務遂行のための武器使用」と呼ぶ。) 一方、日本のPKOの武器使用基準は国連基準に比べ、大幅に限定的である。現行憲法及びその解釈は、PKO活動であっても原則「自己保存のための武器使用」しか認めておらず、「任務遂行のための武器使用」は不可能である。その ために、日本のPKO要員は、例えば武装解除という任務のために武器を使用することができず、本体業務を凍結解除した後も他国のPKO部隊と同等の任務を果たすことができない。また、国連の言う狭義の自衛(上記(1))についても、他国のPKO部隊を防護するための武器使用は原則として認めていない。結果として、日本のPKO参加が、国連全体のオペレーション効率を下げている側面があることは残念ながら事実である。
私たちは、日本が国連PKOに全面的に参加できるようにする以上、武器使用についても国連基準と同等のものを認めるべきだと考える。さらに、それが可能になる方向で今後の法制度のあり方を議論することに同意する。
3.今後の論点
私たちは、伝統型PKOに限定することなく、平和構築型や平和強制型を含め、あらゆる種類の国連PKOに参加する選択肢を日本が持つべきであることを提案した。そして、この提案を実現するためには、現行法制度の抜本的見直しが不可欠である。予想される見直しはPKO参加5原則(停戦合意、受入同意、中立性原則、撤退原則、自己保存のための武器使用)の変更を含む。
今後の課題は、このような見直しを可能とする方向で憲法論議を整理することである。本中間報告は、憲法を含む法制度の見直しに関して、以下の論点を例示する。
(1)安全保障基本法等による規定
安全保障基本法又はそれに類似するものを制定し、その中に国連PKO活動への全面的参加を明記する方法も考えられる。
(2)PKO派遣部隊の位置付けの見直し
PKOに派遣する部隊を既存の自衛隊から区分し、その部隊に関しては国連PKO活動への全面的参加が可能になると考える方法である。完全な別組織とするか、国連待機部隊の形とするか、部隊の身分をどう考えるべきか(国連に属すると考えるか否か等)等については、今後、詳細な議論が必要である。
(3)憲法との関わり
(ア) 憲法の関連条文は現行のままとした上で、国連PKOを集団安全保障と明確に位置付け、集団安全保障を憲法9条と前文の再評価によって積極的に認める方法がある。この場合、集団安全保障の明確な肯定によって国連PKOへの参加に憲法上の制限はなくなり、平和強制型PKOへの参加や武器使用の問題も解決する。
(イ) 憲法前文及び9条の条文自体を見直す方法も考えられる。この場合、集団安全保障を可能とする旨の根拠条文を加える、集団安全保障への参加を制限する条文を削除する、等の選択肢が考えられる。いずれにしても、国連PKO以外の憲法上の論点についても結論を出した上で見直し案を検討することになる。
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