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2001/05/24
民主党地方分権公聴会〜公聴人からの意見陳述/浅野史郎(宮城県知事)
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 いまの玄葉さんのお話に、忘れないうちに2点だけコメントさせてもらいます。

 一つは、財政調整交付金を設けますよね、あれの算定方式とか実際に配り方があります。あそこにぜひ知事を入れてもらいたい。地方の代表を入れてほしいと思います。考え方は、配るのではない、分けるんですという思想でやらせてもらいたい。方法論が大事だと思います。

 もう一つは、政治的なところにいくと、いまこれを聞いたら、私は国家公務員をやっていましたので立場上わかるんですが、国の役人はすぐ頭に来るのは「あ、おれ失業するんじゃないか」ということです。ぜひ国の役人の“失業対策事業”というか、「安心しろ、食うに困らないから」ということを言ってもらわないと、霞が関は命をかけて反対します。だってこれだったら失業するということですから。特に補助金をやめちゃうというと、それまでは補助金分配業をやった人はすぐ失業になるわけです。ある省の、これ厚生省なんですが、ある局のある課の職員の90%は補助金分配業に従事しています。そうすると一括交付金になった途端に、ほんの一部を除いて「あんた方の仕事はなくなったのよ」ということになるわけですから、その失業対策事業を考えなくちゃならない。

 これは失業対策事業でなくて、私が言いたいのは、決して国の仕事はなくならない。いままであんた方暇だったのね、やるべきことをやっていなかった。ポイントは国際化です。国際化の中でやるべきいろんな仕事をしないで、内向き、内向きの仕事ばかりしていました。

 それから真の意味での専門性を持ってほしい。いままでは頭を使うところは、宮城県になんぼ渡すべぇ、そういう計算業務だったんです。福祉の仕事であれば福祉の本当の専門性を磨くのに時間も労力も意欲も使っていない。そこに全精力を傾けてみれば、まだまだあなたたちは飯を食えますよということを示す必要があるのではないかと思います。

 さて、私からは特に補助金の問題をお話をしたいと思います。補助金の弊害、いまお話の中でも補助金を一括交付金、五つにすると。いま霞が関と国との関係だけでも補助金の項目が2300あるんです。こういうエピソードがあります。ある日本の学者が、フランスの中央集権、地方分権を勉強しにフランスに行った。日本の状況もお話ししますよね。連れていった日本人通訳とフランスの中央政府の担当官とがケンカになったというか、中央政府の人が「この通訳は無能だ。数字の翻訳ができない」と言った。なんでかというと、こっちから説明のときに「日本の補助金は2300あって」と言ったのを聞きとがめたわけです。 1960年代後半にフランスでは170の補助金の項目がありました。それを苦労して1997年までに55件に減らしたんです。170件から55件に減らした国の人に、「いま日本には2300の補助金の交付があります」と言ったら、これはとてもそのまま入ってこない。絶対通訳が間違っているんだというふうに思い込んだのも無理もない。桁違いなわけです。これは一つのエピソードですけれども。

 その補助金の弊害は、一般職員の日常生活からいったら、手間暇かかるということです。補助金を一つもらうために、これだけの資料をつくらなければいけないという笑い話があります。一方、国の側からいったら、相手は47都道府県です。その47倍の仕事をしなければいけないというようなむだをどうしますかということが一つ。

 もう一つは、補助金は物事の性格上縦割りです。縦割りというときに問題になるのは、補助金につながっているいろんな仕事の中で、AからZまである中で、AとBとどっちを優先するか、どっちに予算のシェアをやるかというのが知事の仕事ですが、縦割りであればそういうことはできません。トレードオフはできないんです。国との関係で、補助金Aという事業は少し我慢しますからBをふやしてください、というのはできないんです。省ごとではなくて、係の補助金の項目ごとでもそのトレードオフはまずほとんどできません。そういう中で知事はどうやって資源の配分をするのかということです。

 補助金の弊害のもう一つは、財政錯覚(fiscal illusion )です。ある自治体で、市町村にしましょう、ホールをつくりたいということで住民から要望があったとします。財源がないからできないというふうにその町長さんはお答えをするわけですが、住民からいえば「そんなものは国から、県から補助金をもらってやればいいでしょう。それでも足りなかったら、地方債、借金を発行してやればいいでしょう。だってその償還金の相当部分は地方交付税で面倒を見られるんだから」と言われるわけです。となると、そのホールをつくることが本当にその町で優先順位がどうかということが吹っ飛んで、優先順位が低くても、補助金をもらえばいいでしょう、地方債で借金をすればいいでしょうということでゆがめられる。これが財政錯覚です。

 その基本には「補助金は人の金」という感覚があります。人の金だからもらわなければ損、取ってこなければ損、借金は後の世代の金だから気軽に借りよう。そこまでいかなくても、いま手元にある財源だけをもとにして事業ができるということから来る財政錯覚があります。これが市町村ごとの3200倍、都道府県ごとの47倍ということであれば、その財政錯覚は国レベルで大変なことになっていくということがあります。

 そういう中で私どもは、いまもお話があったわけですけれども、国のレベルで既に歴史的使命を終えた補助金は退場願うということを、具体的にこの補助金、この補助金、この補助金と指し示していかなくちゃいけないということを知事会で言ったら、「いやあ、宮城県はいいなあ、補助金をお断りするだけの財政的余裕があるんですか」と、皮肉でなくて本気で言われたんです。これは大変難しい議論です。

 余計なことですけれども、受験制度に大体高校生はいろいろな疑問を持っています。こんなことでわれわれの能力を調べられたら困るとか、大学入試よりももっと大事なことがあるというふうに言っていながら、ちゃんと陰では入試勉強をしているわけです。一番間抜けなのは、反対、反対と勉強しないで大学に入れなくて困る。いまの国と県との関係も立場を少し考えなくちゃいけない部分があって、私たちはシステムの変更を言っています。しかし、いま補助金制度があるところでは補助金をもらいたいというふうなことはやります。いまの入試のアナロジーみたいなものです。

 もう一つ、いまのお話で出なかったのは課税自主権の問題です。地方の課税自主権が実質的にないというのが大変な問題なんです。われわれは地方自治体とか地方公共団体といっていますが、課税自治権ということを頭に置いたときの呼び方は「ローカル・ガバメント」が正しいんです。われわれはローカルであってもガバメントなんです。ガバメントのガバメントたるゆえんは、税金を賦課して、取って、それで事業をやるということです。そのためにたとえば行政改革ということを考えたときに、当然、うちの県で賦課されている税率を下げられないだろうか、もっと行政運営が効率的であれば下げられるはずだ、行政改革をしろ、というのは住民側から来るはずなんですけれども、それが来ない。なぜかといえば、もし宮城県で行政改革がものの見事に効率性という意味で成功したとして、宮城県で住民税の税率が下がるかといったら、下がらない。であるからこそ、行政改革をやろうと言い出すのは常に知事なんです。住民はあまり言わない。本当はおかしい。民主主義というのは本来は、議会制民主主義もそうですが、王様が勝手にかける税金を免れるために議会をつくる。それがまさに民主主義の出発です。実質的に課税自主権がない自治体は、ローカル・ガバメントと呼ぶだけのものを備えているだろうかということも大変な問題です。

 そういう中でわれわれとして、もう一方運動論としてはいま何をするべきか。制度の変革についてこういう場で申し述べるということもありますけれども、われわれの日常生活の中では、自治体が自信と誇りを持ってやっていきたい。そのためには「ほれ見ろ、宮城県がやっているこういう事業は大変いいぞ」という発信性を持った事業を示していかなくちゃいけない。自由にやらせることによってこんなことができるんだとすれば、もっと自由をふやそうという話に国も住民もなっていかなければ、政治的な圧力にはならないということで、口で言うだけではなくて、われわれがすべきこともあるのではないかと思います。

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