地方分権の話でございますから、ついつい税財源の話になると思うんですが、僕もその話をしようかと思ったけれども、課税自主権を与えるとか、ちゃんと負担と受益を考えた税財源、それは当然のことでして、ほとんど一緒だと思います。ちょっと角度を変えて、分権のあり方を運動体としてどうとらえるかという議論にしてみたいと思います。
日本の社会も、あるいは地方自治体の単位も、簡単に満塁ホームランを打って地方分権をやろう、なかなかそうはいかないと思うんです。それでいろんな手を重ねて、時にはバントヒット、時には盗塁、そういったことを繰り返しやりながら、8勝7敗とか9勝6敗とか10勝5敗といった形で進めていく運動体としてとらえるべきではないかという感じがするわけです。三春町の町長さんのお話を聞いて僕も思いついて、さっきの玄葉さんのを見てあっと思ったのは、X県下の市町村の歳入増減率と書いてある。三重県では「県下」という失礼なことは使わなくて、県内と。三春町の町長さんみたいのがいらっしゃいますからね(笑)。何げなく使っている「県下」というのは見下した話だと思うんです。そういったことの一つ一つから取り除いていく。形から、言葉から取り除いていく。そういう中央集権スタイルはいかがなものかという議論を繰り返しいただくことがとっても重要なことかなと思います。
石先生みたいな財政学者を前にして失礼ですが、三重県は財政課をなくしました。あんなのは計数管理課でいいんだと申し上げたんですが、なかなかそうもいかずに、「予算調整課」という。県庁の中の財政を中心として縦割りという、これは産業優先の昔の名前で通産省、建設省、文部省とか、産業別ということはキャッチアップの思想から来ている。本当に地方分権をやろうと思えば、地域経営は総合的にやらざるを得ないわけですから、当然横断的にIT社会と同じくそういうふうになってくると思うんです。
そうすると県庁の中でもわれわれ考えなければいけないのは、人事課はやめて職員課にしましたけれども、性悪説に立って、「あいつ必ず悪いことをするから」といっぱい規則をつくる。そんなバカなことをやめて、性善説にして、採用時に倫理規定とか厳しくいろいろなことをやって、それに反したらクビ、そういうことも考えたらどうかなと。そういうことを三重県は改革の考え方はあらゆる運動体としてとらえて、形から変わるとか服装から変わる。三重県は7〜9の3カ月間、私もネクタイを取ります。サマーエコスタイル、28度適温ということでやるんです。知事が半袖で開襟シャツで、モーニングを着た人に県民功労賞を渡すのは私も恥ずかしいです。だけど形から変わるという、そんなことも考えたらどうか。あるいは知事は特大の白いバラをつけて、ほかの人は中ぐらい、一番(小さいの)は下と。「おまえは知事より偉くないぞ」と、これまるっきり証明しているんで。リボンを取り外す運動のほうがきくんじゃないかと、そういう感じなんです。男女共同参画で女性がやられるとそういうのはスッと名札に変わっています。だから女性参画はとっても重要な感覚になってくるのじゃないか。そういったことを絶えず意識しながら、社会そのもののありようを変えていかないと、この中央集権という、サブシディアリティではない、制度的な補完性があるわけだと思うんです。五十数年間キャッチアップで見事な成功体験を持って、一つのヒエラルキー体制ができ上がって、管理するのが上手だというならば、それはいい大学を出ようよ、それは絶対得だという保証つきだった。したがって、いい大学を出てということになれば、だんだん教育ママになって、保育園・幼稚園から競争社会、こういうことになって偏差値教育ということだったと思うんです。これは一つのパラダイムがそう続いてきたからそういうことになったにすぎない。じゃあ今度は本当に問題をどう発見するか、あるいは発見した問題をどう解決するか、そういう教育体系に変わっていかなければいけない。そういうことを考えたときに制度的な補完性という中で、とても強い制度的補完されているのはやっぱり東京中心の中央集権だと思うんです。みんな交通は東京に来る、情報も全部東京。したがってバカ高い交通費とか情報インフラ代とか、そういったことをどうやって見直していくかということもあわせて取り入れていただきながら、そして国・県・市町村という三層もあっていいかどうかという議論も当然ありますが、そういった自治体政府というだけでなしに、人々の気持ちの中にこそこの国のありようというものを21世紀型というか、そういったことをきちっと提示できれば、そっちと税財源とがあわせて進んでいけば、素早く分権社会ができていくんだと考えるわけです。
それの最も重要な一つの切り口は、やはり情報公開だと思うんです。負担と受益という問題も、情報公開を全部すれば実は行政体もいままで隠していたことを全部ばらすわけですから、一たんは辛いですが、とても楽になります。住民の方を協調者に育て上げるわけです。もっとわかりやすくいえば共同正犯に仕立て上げるわけですから、二度と知事の悪口は言ってはいけませんよと。民主主義社会は本当に時間もかかるし、コストもかかる、こんな未成熟な制度はないと思いますと。だけど主権在民で、主体の県民の方が参画できるというとってもいい制度だからこそ取り入れるんでしょうと。そしてその制度はもう一ついいことは、修復可能でしょう。気に入らなければ落とせばいいわけだ。こういうことになったときに、情報公開を本当に進めれば、自己責任を住民の方に問いますよということを明確に申し上げなければ、分権社会は絵に描いたもちになろうと、そう思っているところでございます。
したがって、それぞれが「お任せ民主主義」「観客民主主義」を卒業して、自分たちの町は自分たちで絶対つくり上げるんだという町民がなければ、あの町長さんはだめだとか、あの役場は間に合わないとか、そんなことを言っていたら、しょせんは天につばする行為で、町長のレベルは町民のレベル以上に絶対行かないわけですから。そういうことが本当に語られてこないと分権社会は生まれてこないのではないか。
その情報公開の最もいい手段は地方分権でございまして、一番身近な住民のところでいろいろなものが決定していけば、うちの子どもの教育のためにあと1割は消費税を出しましょうとか、あるいはわれわれの老後のためならあと10%は出しましょうとか、そういうことになってくると思うんです。中央集権で全部一括で集めて、わけのわからんところからまたデリバリーといういうことはだめだというならば、むしろ分権は情報公開を進めることが一番進むのではないか、私はそんな感じがします。
そうすると要求型民主主義のことで、「町長よ、国に行って予算を取ってこい」「知事よ、国に行って予算を取ってこい」とか、まったく住民は自立せずに、取ってこいよ、取ってこいよと、そんなことが民主主義と錯覚してきたこの50年間をわれわれは本当に見直す必要があるんだろう。そういうことを運動体としてお取り上げをいただければ本当にありがたいと考えています。
もう一つは、350万人地方公務員の皆さんはおられます。この350万人の方が予算消化型で、補助金をもらおうとか制度に縛られていますから国を向いていたのが、地方分権一括法案で説明責任は住民に果たさなければいけないと変わった。これはものすごく大きいと思います。最近は変わった宮城県の知事さんとか東京の知事とか出てきました。あれは個性もさることながら、本人も変わっているんだと思いますが(笑)、これは実は制度が変わって、国に対して8割、官選知事と民選知事で8割も機関委任事務や補助金が残ったものだから、国に対して説明責任だから、中央省庁の局長さんぐらいが知事になったらそれは便利だわねということだった。自己決定して住民にアカウンタビリティを果たそうと思ったら、そういう制度が変わったんですね。
そういうことの中から浅野さんや石原さんや田中さんや、一緒にするとわかりませんが、似たようなものだと思いますが、そんなことで実は変わってきているということを考えますときに、市町村の職員の方、県庁の皆さん、優秀ですが残念ながら思い込みがある。全部国にお伺いを立ててということになっているこの気持ちを、本当に取り外そうと思っています。私、労使共同委員会というのを立ち上げました。労使って私は資本家か? 一銭もありませんよと。資本家側は搾取するとかバカげた発想にはさよならしましょうよ。そして本当にサービス、県民満足度提供ならば、労使が力を合わせてやることは何らやぶさかではない。得てきたものに対してデリバリーするときに労使交渉をやればいい、というようなことを一生懸命やった。労使共同委員会で、われわれは同じベクトルを向いて仕事をしていますから、癒着と見られるのが一番いやだということになって、マスコミを入れて、県民注視のもとに労使共同委員会をやりました。一遍に進みました。そして参加意欲が出てきました。こういうことも一つの運動体で最も大きな成果だったと自分で思いますが、そういったことをあわせて考えていきながら、税財源もそれに必然的についてくる。これはオープンにします。情報公開したら必ずアカウンタビリティが発生しますから、当然税財源はついてこざるを得ない。それを否定した政府は、必ずあっという間に消えてしまうというふうに実は思っているところでございます。あらゆる運動体としてとらえて、そして集権官治から分権自治へと、そういう社会を私たちは期待をいたしておるところでございます。
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