ニュース
ニュース
2000/11/01
川辺川ダム計画と五木村について
公共事業を国民の手に取り戻す委員会


ダムの必要論の実態
 川辺川ダムを必要とする治水論には、二つの大きな水害が使われてきた。

1. 昭和38年に、球磨川支流の川辺川流域の五木村で11名の死者を出した「8.17水害」。

この時、この流域の山々は、丸裸であった。川辺川上流域の山林は、民間林8割、国有林2割と、民間林の割合が高い。民間林では、戦中から、戦後、朝鮮戦争特需景気、そして石油が出現するまでの間、かつてないスピードで広葉樹を伐って、薪・炭に変えていた。特に五木村では、それまでは少数の山林地主に年払いの給金を受けて働いていた小作人が、戦後は薪・炭売買で、初めて多額の現金を手にし、熱心に山を伐った時代であった。

一方、針葉樹のいっせい大造林が国策とされ、国有林・民間林ともに、広葉樹を伐って針葉樹を植えていった。

同じことは、全国の森林で進んでいたのだが、昭和38年の川辺川流域での「8.17水害」は、このように、山が丸裸になっていたために、大きな被害となったのである。
球磨川本流やこの川辺川支流での大きな水害が、昭和2年のあと昭和38年までは、昭和19年、24年、25年、29年に連続している時期を見ても、森林の荒廃と水害の相関関係が理解できるだろう。

昨年、「九州の原生林を守る連絡協議会」は、川辺川上流域の森林の再生状態をまとめ、「大面積伐採が行われた昭和40年代に比べ、森林が再生したり、保水力が回復して、水害の危険性が減少している」ことを発表し、「川辺川ダム建設よりも、“緑のダム”機能を高めるための森林の手入れ」こそ必要であると提言した。
建設省が、上記のような森林事情やこの提言を無視して、ダム計画を推進しているところに問題がある。 

   そしてもう一つ。あまり意識されていない問題が、進行中のもう一つのダム計画、五木ダム建設である。川辺川ダムは相良村と五木村の中間に造られる。五木ダムは、五木村のまだ上流に、治水と称して造られるダムで、これは五木村が要望した。この現地へ行ってみると、この五木ダムの水没地域こそ、五木村と川辺川流域にとっての“緑のダム”であることがわかる。素晴らしい広葉樹林帯なのだ。この五木ダムサイトは、川辺川ダムサイトよりも地盤が脆弱で問題を抱えている。民主党は、この五木ダムも合わせて止めなければ、川辺川流域においては、「緑のダム構想」を実現することはできない。


2. 昭和40年に、球磨川本流で6名の死者を出した「7.3水害」。

   この、本流の水害では、以前の水害と決定的に異なることが起きている。それは、人吉市内の水位が、わずか30分あまりの間に、2メートルも急増したことである。これは、市房ダムの放水によるものである。

球磨川本流の上流には、昭和35年に市房ダムが完成している。市房ダム完成までの、中流の都市・人吉市の洪水は、「じわり」とやってくるものであったが、この時は「瞬間流量」としてやってきた。それが、人命まで失われた大きな水害になった理由である。

   問題は、人吉市がすでに膝まで浸水し「水害」になっているのに、「これからダムを放水する」という決定がなされたことである。これが、この時の「洪水」を「水害」にしたのだ。ダムの放水は、ぎりぎりまで、「利水」のための貯水を優先していて、これ以上ためると本体が壊れるという事情で実行された。
球磨川流域では多くの人が、この「ダムの放水による水害」を記憶している。


五木の歴史とダム反対
五木村は、先にも書いたように、民有林が多く、33人の旦那衆と呼ばれる山持ちと、名子と呼ばれた小作人で形成されていた。名子の娘たちは口減らしのために、旦那の家や都会の大店(おおたな)に子守り奉公に出るような暮らしぶりだった。それが“五木の子守り唄”にこめられた哀しい想いである。

  その五木に「川辺川ダム構想」が持ち込まれたのは、昭和41年(昭和29年に相良ダム計画があったが五木は反対村民大会で反対した。その後、この計画が名称を変え、昭和41年から、川辺川ダム計画として推進された)。

林業や炭焼きに頼っていた経済が疲弊したところへ昭和38年から三年連続水害。村を棄てて都会へ出てゆきたい人には渡りに船、土地を持っていなかった元・小作人にも、「ダムに賛成すればあなたにも代替地をあげます」という言葉がささやかれた。

 一方、同じ九州の筑後川の上流では、下筌ダムに反対して、大山林地主の室原知幸氏が、昭和35年前後には、蜂の巣城の闘いという壮大なダム反対闘争をくりひろげていた。それを見ていた五木の山持ちたちは、「室原さんに学んで」、建設省に対して法廷闘争をもちかけた。名子とかつては呼ばれた小作人たちは、「室原さんに学んで(?)」オカミに逆らっては勝てないと、最初から条件闘争となってしまった。

 すると、災害復旧と称して、「公共事業」がやってきた。五木から人吉までは、以前はろくな道もなく、往復は一日がかりだった。「ダムに賛成すれば道路ができる」。山を荒れたままにして道路の賃仕事に出る山の人達の、せめてもの自分へのいいわけだったろう。

  五木は、ダムに苦しんできた全国の他の山里に比べて、なかでも「公共事業」依存度が高い。ダムを進めている水没団体のリーダーであり、建設会社の社長自らが、「五木は、公共事業だけに頼って、他の振興策をいっさい真剣に考えてこなかったことが問題である」と述懐されるほどだ。


五木村からのききとり
 当諮問委員会の委員である、五十嵐・天野・宇井・保母らが近年、「公共事業」しか振興策を持ってこなかった五木の将来を考えるために、「川辺川問題を考える研究者の会」を発足し、五木のダムに関する三つの水没団体から、ヒヤリングを重ねてきた。

 簡単にまとめると、五木の人々の意見は次のようなものであった。

* 老人が多いので、医療施設を村内に持ちたい。そして、村外からの入所者も募集して、療養型医療施設を村の振興策にしたい。
* 若い者は公共事業でしか働いたことがないので、他の仕事が考えられない。
* 山を生かした仕事がしたい。自分の山を手入れすることに国から補助が出て、それを振興策とできればありがたい。まだ60代から70代の男子ならやれるだろう。山の経験を生かせれば、ボケにならない(ダムで移転させられて都会に住むとボケる人が多い)。
* 道路はできたのでダムをやめてもらって、「ダムが止まった村」で逆に売り出し、きれいな空気と水を売り物にしたい。上の代替地の新住居は、「21世紀型環境対応」にしてそれも売り物にし、下の古い村のたたずまいをそのまま残して観光地にしたい。だから、清水バイパス(後述)を造って五木から水を奪う案などとんでもない。




ダムができるとどうなるか

1. 洪水の恐怖

   球磨川本流の「40年7.3水害」や「46年水害」「54年水害」「57年水害」を体験している流域の人々は、「球磨川は洪水常襲地帯なので、昔の人は逃げ方を知っていた。しかし市房ダムからの放水は急激にくるので対応できないのだ。そこへ、市房ダムの三倍の集水面積の川辺川ダムの水が同時にくるようになると、人吉あたりの堤防がもたないし、ダムはかえって洪水時には危険」というのだが、建設省は「だいじょうぶ」と答えるだけだ。こんな危険を犯してまでもの「治水」とは、「治水」ではないだろう。

2. 球磨川下りと天然アユ―選択取水装置と清水バイパス

   球磨川は、「日本三大清流」の一つであり、今でも「舟運」の残る全国でも数少ない“まだかろうじて生きている大河”である。それは、上流に市房ダム一つしかなく、下流の瀬戸石ダムまでの間の、川の一番ダイナミックな部分に、今でも大量の水があるからだ。そして、球磨川の全国へ誇れるもう一つの自慢は、三匹で1メートルにもなる巨大アユである。

   この球磨川下りと、巨大アユ、そして人吉温泉を目当てに、全国からの観光客や釣人がやってくる。ダムはそれらを台無しにしてしまう。

   現在の球磨川は、市房ダム完成以降は常時出るようになった濁水を、中流から合流する日本一の清流の川辺川が救済しているという現状である。その川辺川が流れ込まなくなれば、球磨川下りも、天然アユも、絶滅することは明らかである。

   そのため建設省は、球磨川漁協と人吉市議会を説得するために、川辺川ダムへの選択取水装置の取り付けと、五木村からの清水バイパスを提案している。

―選択取水装置とは

 選択取水装置は、洪水時に濁水部分を選んで、洪水と同時に流してしまい、土砂がダムにたまらないようにする装置である。
   電力会社などはダムの延命のために、あらかじめ本体にとりつけて、漁協には納得の上で濁水を流させてもらっている(高知川、奈半利川など)。
  ところが建設省は、球磨川漁協には正反対の説明をしている。「選択取水装置をとりつけ、清流部分を選んで流すので、濁水は流れない」というのだ。四国吉野川の早明浦ダムでは、20年も建設省にお願いを続け、やっと選択取水装置をつけてもらい使ってみると、以前よりひどい濁水が洪水時に流れた。文句をいうと「きれいな部分は温度が低いので、農業やアユに影響があると思い、適温のところを流したら、濁水だった」というのだ。
   球磨漁協は「濁水装置」とひきかえに、「着工同意」をして、後悔しないだろうか。

―清水バイパス

 選択取水装置の他にも、清水バイパスを五木の上流から山を抜いて人吉市の本流との合流点までつけて、きれいな水を大量に本流に流すので、球磨川下りのイメージは悪くならないと建設省はいう。五木村議会は、「上流のきれいな水まで奪うことは許さない。それでは村民は目の前に流れる水を失うことになる」と猛反対している。当諮問委員で、水処理の専門家である宇井純氏が建設省本庁へ行き、清水バイパスの青写真をほしい、とたずねたところ、「川辺川ダム事務所に聞いてくれ、本庁にはない」といわれ、現地事務所に聞けば、「青写真はない、東京が研究しているはず」との返答であった。


―漁協のもう一つの条件

 球磨川漁協の組合長は今、ダム建設を引き受ける条件として、本流にアユの人工産卵河川を造らせたいという。
 今、全国の河川が手を焼いているアユの伝染病“冷水病”は、琵琶湖に造られたアユの人工産卵河川で発病し、日本中に広まったことは有名である。こんなものとひきかえにダムを造って、きれいな大量の水を失い、浅い人工産卵河川で伝染病が発病でもすれば、日本一の球磨川天然巨大アユは姿を消すだろう。


3. 土地収用法と漁業権

   建設省は2000年9月29日に、土地収用法にもとづき、川辺川流域の未収用地と漁業権の一部の収用を申請している(それと共に「土地収用法」そのものも改正(改悪)しようとしている)が、これは不当な行為である。
   また、漁業権は組合に帰属するものでなく、組合員一人一人にある権利なので、これを収用することはできない。


4. 農家の反対

   高原(たかんばる)台地1700ヘクタールでも水田を作りたい。そのためにはダムがあれば良い。これが、かつて相良村を中心とした農家の人達がダムに賛成した理由だった。ところが、ダムの水と、水を引くための土地改良の受益者となる4000人の農家のうち、半数以上の2107名が農水省を訴えた。

   代表をつとめているのは、かつて相良村で、住民に対してダム賛成の判をもらってまわった経験を持つ、当時の計画課長で農民の梅山究さん。昭和45年からの減反で、米作りをやめ、水を大量に必要としない茶畑に変えたら成功し、もはや土地改良の必要もなくなってきた中で、あらたなダム建設への参画は多大な料金がかかるのだから、「ダムの高い水を必要というのはやめよう」と動いたのだ。

この利水裁判は2000年9月8日に地検で敗訴したが、原告の90%が、9月22日に高裁への上告をしている。

   ダムが完成するまでは、農民には負担金の額も知らされない。たとえ正当な判決がまだ下っていなくても、農民が事業に参加しないのに本体着工することは違法であり、不可能である。


5. 熊本県の負担

   民主党はすでに、川辺川ダム計画については、反対の立場を取っている。民主党を中心とした野党が政権を奪取すれば、川辺川ダム計画はただちに中止される。

   その時は、県が賛成して本体工事が進んでいない方が、県の財政を救済できる。

   熊本県は財政再建団体への転落の危機に直面しており、10月の県議会では、自民党の県議二人が知事に対して、「農民の半分以上が反対しているのに、計画を進めるのはいかがなものか。知事は国とよく相談してはいかがか」との質問をされている。

   この場合の「国」とは、政府・自民党のことであろう。「建設省のいいなりに計画推進の発言をしていてだいじょうぶか。″亀井抜本見直し委員会″も動いている時代だぞ」という忠告と、県と知事は受け止めるべきだろう。




提案 「五木村をどう建て直すか」
保母武彦(島根大学教授、財政学・地域経済論)



五木が持つ振興計画

 中山間地域は、果物や畜産物の4割以上を生産するなど食糧供給機能のほか、国土・環境保全、文化的伝統の継承、保健休養等に重要な役割を果たしている。この機能を維持するためには、この地域に人が住み、農村社会がしっかりと維持されていなければならない。

 しかし、多くの中山間地域は、産業、財政が破綻に瀕し、集落単位で消滅に向かう地域が出ている。原因は、山間地域の厳しい自然的、地理的条件ばかりでなく、ダムの建設等によって人為的に与えられた困難もある。

 五木村もそのひとつである。五木村は、土木建設業が最大の産業になっていて、下流で異論が高まっている川辺川ダムについても、主体的に意思表示できない状態にある。この足かせをとくためにも、公共事業依存体質からの脱却、地域経済の自立が必要である。

 五木村には『川辺川ダム建設に伴う立村計画書』(平成元年9月)と『五木村ルネッサンソン』(平成8年3月)という再建計画がある。しかし、村民に聞いても、「建設省がつくったハコモノ計画にすぎない」と言う。この計画により村が再生できるという確信は村民にない。計画の見直しも含めて、村民がやる気になる新しい進路が必要であろう。


内発的発展を考える

 新しい村を支える産業振興が求められているが、企業誘致の可能性は、五木村を含めて中山間地域ではほとんどない。不況の影響だけでなく、企業立地は海外に向かっていて、中山間地域が企業誘致に望みをかける余地は皆無に近いからである。したがって、地域のソフトとハードの資源を活用して、住民、事業者、行政等が知恵を出し合い、力を合わせて進める、「内発的発展」しかない。

 しかし、五木村は田畑が少なく、特産として期待された栗やシイタケも猿による被害を受けていて、条件は厳しい。

その中で、五木村の再生のテーマとしては、「水と緑」がふさわしい。ダム問題に関わってきた山村を象徴するからである。そしてその再生と進行には、全国の中山間地域が蓄積してきた地域振興の経験を集中的に学び、十二分に活用することが望まれる。例えば、五木村の計画には、シイタケ生産がある。猿害を考慮すれば、同じ茸でもハウス生産のほうがよい。島根県・仁田町では、10年ほど前から菌床栽培のシイタケ生産に着手している。今では10億円産業に育てている。地元の山の木を使ってオガクズ生産工場をつくり、菌を植え、各農家がハウス栽培をし、共同出荷している。10年間でこれだけの産業に伸ばしている。五木では、マイタケなど他の茸類を考えてもよい。


「水と緑」をテーマに、福祉立村を

 清流はこの村の命である。下流の利水、治水需要が減っている中では、ダムについても村民の意見を表明することが欠かせない。そうしてこそ、水が生かせる。こういう地元の資源を活用して、地道に、しかも将来展望を持って始めることが肝心であろう。

 高齢化社会を考えると、高齢者福祉施設の運営を、地域の「産業」として位置づけてもよい。

島根県の石見町では、昭和40年代から障害児施設、高齢者福祉施設、病院を建設してきた。一次は、行政改革で施設の廃止を検討したこともあるが、今、ここに働く従業員は300人。小さな町にとっては「大企業」である。

 熊本県も協力して、広域的に五木村に福祉施設を集中して、「福祉立村」構想を考えてもよい。高齢化が進む球磨川流域が協力すれば、できない相談ではない。
五木村の条件が厳しいことは前述したが、厳しいからこそ、この村の再生に本腰を上げる価値がある。五木村を再生したとき、中山間地域政策は、全国の中山間地域に通用する高いレベルに到達するであろう。
記事を印刷する