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2002/04/16
「教育職員免許法の一部を改正する法律案」(閣法)に対する本会議質問/牧野聖修
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民主党 牧野聖修

只今議題となりました「教育職員免許法の一部を改正する法律案」につきまして、民主党・無所属クラブを代表して質問を致します。
先ず、本法案の質問に先立ち、関連して三点をお伺い致します。

そもそも、時の政権の意思は、総理大臣の所信表明演説と、編成した予算の中に示されるものであります。
二〇〇一年五月七日、小泉総理はその就任に際しての所信表明演説の中で、「教育」に関して、触れたのは、二十七分の演説中、わずかに十五秒。手渡された原稿を見ますと、百六十六桁中、わずか二桁でありました。  
憲政史上歴代内閣と同様、橋本内閣、小渕内閣、森内閣と、いずれも所信表明演説の中には、はっきりと「教育」の一項目を立てられて、言及されておられましたが、小泉総理の所信表明演説の中には、項目としての「教育」はむろんありませんでした。
しかも、小泉総理の手による本年度予算では、教育の現場から、もっとも要望の強かった老朽校舎の改修といった施設整備費は大きく削られております。
これでは小泉政権は、教育に対して関心も意欲も無いと言わざるを得ません。
「国家の再生には、教育・教育・そして教育」と教育の重要性を高らかに訴えながら、国家再生の先頭に立っている、イギリスのブレア首相に比べ、見識と意思において、格段の差のあることを私は恐れます。
文部科学大臣、あなたはこの小泉総理の姿勢に対して、担当大臣として、どのように考えられるのか、まずもってお伺い致します。

次に、この四月一日より、既に新学習指導要領が実施されております。まだ数日しか経っておりませんが、早くも現場では混乱が起きているようでありますので、この点について質問を致します。
我が国の小・中学校教育は、本当に「ゆとり教育」で良いのか。学ぶ内容も、我々の世代から比べると、半分近くに減らされているが、本当にそれで良いのか。」と、国民の大多数が心配をしています。
文部科学省は「児童の学力低下は無い。」と、しきりに、強弁しておりますが、本当に学力低下の問題は大丈夫なのか、国民に対し、事実を明確にする必要があると思います。
また、これに反して、大学教育については、「遠山プラン」なるものを発表して、効率主義と競争原理を導入し、「スクラップアンドビルド」を、各大学に通告し、加えるに、トップ三十という方法で、賞金をエサにぶらさげて、大学教育の活性化を図ろうとしています。
小・中学校教育で、今進めている「ゆとり教育」との、あまりの乖離の大きさに、国民はとまどいを感じております。この点についての整合性をどのように、とられるのか、明確なる見解を求めます。
そもそも、学習指導要領なる「中央官僚主導の教学方針」が、これからの、地方分権の時代に、本当に必要なのかという、根本的な疑問があります。
我が党は、地方分権を提唱する立場から、国の役割は、必要不可欠な、ナショナルスタンダードに限定し、その他の権限は、最終的に、地方自治体が行使できるように改め、各地域の事情に応じて、各々の判断で、教育が行えるようにすることを、提案しています。
文部科学大臣は、昨年十一月、中央教育審議会に対し「教育基本法」のあり方について諮問をいたしました。この諮問理由を読んでみましても「地方分権」という言葉は一言もなく、地域の自主的・主体的取り組みという視点は全くありませんでした。
地方分権と教育政策のあり方について、文部科学大臣のお考えをお聞かせいただきたいと思います。

過日、文部科学常任委員会で、我が党の大石尚子委員が、文化行政についての質問をした際に、文化庁長官の出席と答弁を、事前通告の段階から、熱心に要請したにもかかわらず、とうとう、文化庁長官の委員会への出席はありませんでした。
その時の、文部科学省の弁明は「文化庁長官は、事務次官と同じ扱いであって、答弁に立たなくても良いという慣例になっている。だから出席する必要はない。」とのことでありました。
調べてみますと、三浦朱門文化庁長官の委員会での答弁を最後に、その後、十六年半、文化庁長官の答弁は一度もありません。文部科学省の、本年度のスローガンは、「人材大国」・「文化大国」・「教育大国」を目指すというものであります。
国民の代表たる国会議員と、国会において、文化行政をめぐって、議論をしないような文化庁長官を、今の我が国は、必要としているであろうか。そのような文化庁長官なぞ、いっそのこと廃止して、文部科学大臣が兼任した方が、よっぽども、国民の為になると、私は思います。
旧い慣例をタテにして、おかざりの文化庁長官を置いて、官僚の手のひらで、躍らせてばかりいても、「文化大国」など、できるはずはありません。
文化庁長官としての経験のある、遠山文部科学大臣は、いかがお考えか、国民に分かる説明をいただきたいと思います。

次に法案についての質問に入ります。
本改正案と同じく、今国会に提出されている「教育公務員特例法一部改正案」も、いずれも、教育改革国民会議の提案を受けて、中央教育審議会が、「今後の教員免許制度のあり方」を検討するなかから、出されてきたものであります。
中教審答申でも、述べているように、幼児期から高等学校段階までを、一貫したものとしてとらえて、指導を行うことは、極めて重要なことだと思います。例えば、現在問題になっている小学校低学年の「学級崩壊」の原因のひとつに、幼児期の問題が指摘されていることを考えれば、幼児期教育と小学校低学年のカリキュラムの一貫性は、重要な課題となります。
しかし、現実には、幼稚園教員と小学校教員とでは、給与に相当の差があること。そして、それぞれの任命権者が異なること、などからして、仮に隣接校種の免許状を取得しても、小学校から幼稚園への異動は、極めて困難であると言わざるを得ません。 
一貫教育の推進に向け、他校種免許による専科担任の拡充や、隣接校種免許の取得促進といった形で、教員免許の弾力化を図ろうとする、今回の法改正は、理解出来ないこともありませんが、このような周辺環境も併せて是正していかなければ、一貫教育の実効性は、上がらないと思われますが、文部科学大臣のお考えをお伺い致します。

私は、幼児期から高校段階までの教育現場で、一貫教育を推進していくという視点から、教員免許制度を考えたならば、学校種別に区別された、現在の免許制度は、やはり本質的な部分において、一貫教育の思想とは、合い入れないものであると考えます。一貫教育に対応するには、現在の免許制度を抜本改革し、複数校種を、ひとくくりとする教員免許の総合化を図ることが必要であると思います。
中教審では、教員の「適格性の確保」と「専門性の向上」とが検討され、「適格性」については本改正法案で、そして「専門性の向上」については、同時に提出された「教育公務員特例法改正案」で、それぞれ法制化を図ろうとしています。
教員の教育的力量を高めていくことは簡単なことではありません。確かに、「特例法改正案」でいう、研修制度の充実は必要ですが、これまでバラバラに行われていた、教職員の養成・採用・そして研修を、系統的に計画的に行うことが、何よりも重要だと思います。
その為、例えば都道府県にカリキュラムセンターを設立し、養成や研修のプログラムを教職員と大学関係者と、そして行政が共同で研究し、提供するという方法も検討すべきと考えますが、文部科学大臣のお考えをお聞かせ下さい。

いずれにせよ、従来の教育行政では、教員の力量を向上させることはできないと思います。地方分権を基本に、地域で教員を育てるという観点から、制度そのものを見直すことを、提案して、おきたいと思います。

私の質問の締めにあたり、二つの事を申し上げたいと思います。
第一点でありますが、日本の各地方では、実際に教壇に立ち、教育の現場にいた先生方が、時々、教育委員会に来て、行政の任につきます。そして数年経つと、また再び現場へと戻っていきます。
このように、地方においては、行政と教育の現場とが、常にお互いの交流を深め、教育の実効性の向上の為に、工夫と努力をし合っています。しかし、国の文部科学省では、現場との交流がなされず、地方へ出向しても、教育委員会に役付で入るだけで、教育の現場には、ほとんど立つことがありません。
私が依頼して数字を出していただきましたが、文部科学省職員二千二百人のうち、教職員の免許を持っている人の数は、百六十九人で、全体の七・七%であります。そのうち、実際に現場の経験を持つ人は五十五名で、二%でしかありません。これもキャリアなのか、ノンキャリアなのか分かりませんが、その大半は、大学か短大での、講議の経験であると思われます。
中学生や高校生の、むき出しの反抗の前に身をさらしたり、PTAの皆様の激しい批判の中で脂汗を流したりする経験は、ほとんどないのが実態であります。
現場を知らず、実践経験の無い者に、国家百年の大計を委ねることほど、危険で、おろかしいことはないと思います。
民主党は、教育政策も含め、大胆に地方分権を行うべきであり、旧文部省的機能は、廃止すべきという立場ですが、それが、すぐには無理というのであれば、せめて文部科学省と、現場の教員との間で、人事交流を行うなど、現場との実践を通じて、生きた文部行政を、進めるべきではないでしょうか。

最後に、我が国には「教育の日」「恩師の日」あるいは、「先生の日」というものが無いことを指摘したいと思います。
人ひとりが、一生の間で、人格形成に一番強く影響を受けるのは、父であり、母であり、すなわち両親であります。そして、その次に大切な役割を果たしているのが「学校の先生」ではないでしょうか。
父の日・母の日・そして、子どもの日がありながら、「先生の日」がないというのは、あまりにも淋しいと言わざるを得ません。せめて、一年に一日くらい、しみじみと、恩師に対する、感謝の思いを新たにする日があっても、良いのではないかと、私は考えます。
教育においては、教えを受ける側の人々が、勿論大切ではありますが、教える側に立つ人々に対しても、尊敬の気持ちを、醸成させる社会的背景を創り出すことが「教育大国」を目指す我が国にとって、きわめて重要なことではないかと訴えて、私の質問を終了いたします。

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