文部科学NC大臣 山谷えり子
教科書問題検討ワーキングチーム
座 長 平野 博文
事務局長 鮫島 宗明
1.基本理念
(1)民主党の基本政策を踏まえて
民主党は今後の教育政策のあり方を展望し、「21世紀の教育のあり方について」とする中間報告を発表済みである。その中で民主党は、個人の自立と確かなモラルに支えられ、国民一人ひとりの自由な創造性が発揮される社会、世界の人々から信頼される日本をめざすことをうたっている。また、そのために教育の多様性を確保し個性を培うとともに、生まれ育った郷土や文化を愛し、世界の平和に貢献できる日本人を育てるべきことが提言されている。
またわが党はその結党時において、外交姿勢として「先の戦争の反省を踏まえて近隣諸国との基礎的信頼関係を構築」することを明確にしている。教科書問題が外交問題の要素をはらむ中、近隣諸国に対するこの基本的姿勢を踏まえる必要がある。
そのほか、鳩山代表の発言、菅元代表が中国訪問の際に述べた村山談話に対する支持表明や歴史問題共同研究の提案なども念頭におくこととした。
WTは以上のことを前提として、教科書問題の検討を行った。
(2)言論の自由のもとで
戦後の新憲法の下では、言論の自由、表現の自由は憲法21条その他により保障されている。わが国は、戦前の言論に対する統制が国民の意思決定を歪めたとの反省に立ち、憲法と相容れないものも含めて言論の自由を保障し、民主主義を最大限尊重することによって、再び過ちを繰り返さないための方法としてきたのである。
私たちは、憲法によって保障される言論の自由は、今日も最大限尊重されなければならないと考える。むろん言論の自由と言えども全く制約を受けないものではなく、教科書においては、発達段階にある子どもの教育に使われるという観点から一定の制約をせざるを得ないが、言論の自由の保障が及ぶのは当然であり、その自由は最大限に保障されなくてはいけないと考える。
2.教科書にかかわる制度の改革
(1)検定制度をどう考えるか
1. (検閲の禁止)
検定制度は憲法に触れないかという伝統的議論があるが、検定制度が緩和の方向で推移してきたことに伴い、近年は表立った議論になっていない。97年の第3次家永訴訟判決により判例的にも定着をみたと考えるべきであり、検定制度そのものとの関係では違憲・合憲の問題は議論からは除外するものとした。
2. (検定の必要性)
憲法論議を別としても、古くから国が教育内容を決めるべきでないという立場から検定の廃止が主張されてきた。近年は教科書が画一的になる一因として、学習指導要領を検定が厳格に守らせることの弊害が指摘されている。また、検定を続ける限りいくら制度を改善しても国の関与という形が残り、検定結果について国が非難を浴びることは避けられないとの指摘もあり、様々な観点から検定の是非は問われている。
民主党は、地域や子どもたちの個性に適した多様な教育を実現するために、教育の内容をより地域に任せていくべきであると考えている。その中で、教科書も様々な工夫を取り入れた多様なものが存在するべきであると考えており、将来的には、こうした観点から教科書検定をなくし自由発行へ移行することを展望する。
ただ、学校教育においては、教育内容について一定の水準を確保し、発達段階に配慮することが不可欠である。教科書においては現在、検定がこうした要請を反映させる役割を担っている。将来検定をなくすにあたり、採択を中心とした地方主体のしくみによってこの要請を果たすことになるが、それには教育の地方分権や学校の受け入れ態勢など、さまざまな環境を整える必要がある。当面は検定の維持によって、教育上の配慮を教科書に加えることは必要であると考える。
3. (公正・中立な検定)
検定はあくまで学問的立場をもとにした公正・中立な制度でなくてはならない。また、文部科学省による恣意的な運用がなされないよう、検定における国の裁量は最小限にとどめられるべきである。現在の検定制度では、検定にあたる教科書調査官・教科用図書検定調査審議会委員の人選、検定過程の情報は非公開となっている。このことについて文部科学省は、検定関係者への無用な圧力を防止し、公正・中立な検定を行うためであると主張している。
WTは、検定過程の情報はその都度公開すべきであると提言する。非公開のはずの検定情報が漏洩し国民の間に疑心暗鬼を生じるような事態は論外としても、検定が非公開で行われる限り、検定の中立・公正にかかる疑念を払拭することはできない。検定の過程において、公開の下で必要な議論を尽くすことこそ、検定の公正・中立を確保するために必要であるし、検定過程を国民の目でチェックすることが、恣意的な運用や圧力の懸念を除き信頼性を高めるためには不可欠と考えるからである。またこうしたことは、教育内容に対する国民の理解を深め、より適正な採択にも資することになると考える。
4. (近隣諸国条項)
近隣諸国条項とは、検定基準における「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」とする項目のことである。
この条項は、かつて教科書検定において「侵略」を「進出」と書きかえさせたと報じられ外交問題化した際に、その解決策として検定基準に盛り込まれたものであるが、これを当時の宮沢官房長官談話とあわせて対外公約と捉える見解があり、その後の村山談話や日韓共同宣言とも絡めて扱われている。中国・韓国もそうした立場を前提としている。
この条項に対する見解は外交問題化しやすく、WTとしてはあえて条項が対外公約であるか否かについて明確な見解を述べるべきではなく、党の外交部門会議で議論すべき問題であると考える。しかし、検定を行う限り、教科書において過去の戦争に関し近隣諸国に配慮した記述をすべきなのは当然であり、配慮した結果どのような記述をすべきなのかという点こそが重要である。
(2)教科書採択のあり方
1. (公正な採択のために)
教科書は、採択されてはじめて学校現場で用いられるものである。採択は学校現場で行われる教育の内容を左右する重要なプロセスであることから、その公正が確保されなければならないのは当然である。
現在の採択制度においては、公立小中学校の教科書採択権は教育委員会にあるとされるが、教科書調査員、選定審議会、選定委員会などにより事実上の選定が行われ、教育委員会の採択権が機能していないとする意見がある。一方では、子どもを最もよく知り実際の学習指導を行う現場教師が採択を担うべきであるとして、教育委員会の採択権を否定し、現場教師の意見を中心として採択すべきとする意見もある。
教育はあくまでも子どものために行われるものである。民主党は、子どもに最も近い保護者が学校教育により参加していくべきであると考えている。学校教育の担い手である教員と子どもに最も近い保護者の両者によって学校教育は行われるべきであり、両者の意見を確実に反映するしくみとすることが必要である。その中で教科書採択についても、保護者と教員による選択がより有効に機能するよう、より小さい単位で行われるようにすべきであり、現在の広域採択から市町村単位へ、市町村単位から学校単位へと採択は移行していくべきである。
また、採択にあたって各社が内容を宣伝することは表現の自由として保障すべきと考えるが、採択権者への圧力や買収となる行為は明らかに採択の公正を犯すものであり厳正に対処されるべきである。
教育委員会が採択権をもつ現在の制度においては、採択の過程において保護者と教員とが関与する機会が対等に保障されるべきである。採択にあたり調査員が事前にリストを作成する絞込みや、いわゆる学校票の制度も保護者の権利を弱めるものである限りは認めがたいものといえる。また、公正な採択を確保するため、検定終了後、見本本をインターネットその他で迅速に公開し、誰もが自由に内容を見ることができるようにして、広く議論が行われるようにすべきである。また、都道府県からの指導・助言の内容や、採択にあたっての調査員等の人選・採択基準・資料など採択手続きにかかる情報は、全て公開されるようにすることが必要である。
2. (より重要性の高まる採択)
民主党は文部科学省の文教部門を廃し中央教育委員会(仮称)を設ける政策を掲げている。WTは、将来的に教科書検定を廃止し、この中央教育委員会の示す大綱と地方自治体単位に設けるカリキュラムセンター(仮称)等の示す指導要領に基づいて、各教科書会社が地域に即した教科書を自由に編集・発行し、地域でよりふさわしい教科書を採択するしくみを提言する。従って、より良い教科書が使われるようにしていくため、採択がいっそう重要なものとなる。
3. (入学試験の改革)
高校・大学へ進学する上で、多くの生徒は入学者選抜における学力考査、いわゆる入学試験を突破していかなくてはならない。入学試験で問われる内容は、学校教育における教育内容を通じて教科書の内容と強く関連しており、加えて細かい知識を問う入試問題の形態が、教科書の多様化を阻んでいると指摘されている。採択を通じて従来の網羅的な教科書が淘汰され、より多様で工夫のある教科書が普及するよう、このような入学者選抜のあり方を見直していくことも必要である。
(3)歴史教科書のあり方
歴史教科書においても執筆者の表現の自由が最大限尊重されることはいうまでもない。歴史を学ぶ目的には、自国の文化伝統を継承するという側面と、歴史から教訓を学び生かすという両方の側面があるべきと考えられるが、こうした教育の目的や真実性といった観点から一定の記述は確保されなくてはならないとしても、その内容には執筆者に広い自由が認められるべきである。
ただ、少なくとも公教育において、私たちは憲法の精神を子どもたちに教えていかなくてはならない。その中で、国際協調・平和主義などについても子どもたちに十分な理解をさせる必要がある。このことは歴史教育においても同様である。日本は、先の戦争によって国民、近隣諸国に多大な犠牲と苦痛を与えたことを反省しなければならないことは、民主党の外交政策でも述べているとおりである。教科書における歴史の記述は、当然ながら国としてのこの歴史認識の範囲内にあるべきであり、これに反するような歴史の教育を行うべきではない。また一方では、あくまでも教育は子どもの自立した市民としての資質・人格形成のためにあることも忘れてはならない。残虐な表現や、国民の歴史、祖先に対する愛情を育まないような教育が子どもたちの心に与える影響について、私たちは無関心であるべきではないのである。
公教育においては、子どもの成長段階に応じて学問の習得・心身の発達の両側面から必要な配慮をすることは当然の責務である。今日、子どもの心の問題が様々指摘されるなかにおいて、教科書の検定にあたってもこれら教育上の観点をきちんと吟味検討すべきである。
なおこの間のWTにおける議論では、「歴史の流れを教える」「歴史事象の原因の分析、結果の相関性を教える」など、歴史を教えるにあたって検討すべき課題が挙げられた。これらの点については、今後引き続き議論を重ねていくべきであると考える。
(4)諸外国との教科書比較
1. 教科書比較研究の必要性
どのような教科書を使うかはそれぞれの国が決めるべきことである。とはいえ、子どもたちが今後の国際社会の中で生きていくことを考えるとき、教科書の内容もひとり日本国内だけの孤立した内容であってはならず、このことは歴史教科書だけに限られた問題ではない。外国語、数学、理科、社会科、あらゆる教科において国際的に通用する教育が行われるよう、教科書の内容を各国の教科書と比較する視点を持ち、世界各国と交流していくべきである。
また、教科書の内容が社会的な問題となるとき、報道その他による断片的な情報に基づいて議論がなされることが多く、その中には誤解や思い込みに基づく議論も少なくない。これは教科書検定の経過が公開されないためでもあるが、客観的な比較の対象となる諸外国の教科書について、研究はおろか翻訳書すら入手が困難なためでもある。こうした議論を感情的なものとしないためにも、それぞれが直接資料にあたり正確な事実を把握することが大前提として必要であり、国としても日常的にそうした資料を収集すると共に、研究・分析を行うことが重要である。
しかし、わが国における諸外国の教科書の翻訳や研究の取組みは、これまで財団法人などを通じたわずかなものしかなく、このような要請に応えるものではなかった。今後、早急に国会図書館内に諸外国の教科書調査室(仮称)を設けるなどし、教科書の収集・翻訳や、研究・分析を行っていく必要がある。
2. 諸外国との歴史共同検討
歴史教科書については、その内容についてたびたび諸外国との摩擦を生じている。このようなことは双方の国民の間に非友好的な感情を生み出す原因ともなり、大変に不幸なことといわなければならない。特に、ひとつの歴史事実についての有無・規模・経緯といった事実認識すら一致せず、歴史の歪曲という批判が向けられることは、わが国の信用にかかわる問題である。
わが国は、アジア諸国と共に歴史の共同検討の場を設け、歴史事実について互いの立場のすり合わせや確認をしていく努力を積極的に行っていくべきである。その上で教科書についても、相互友好の観点から互いに比較しあい、誤った記述の是正やより友好に資する記述のあり方などについて交流を図っていく必要があると考える。
(5)教科書の多様化と費用負担
教科書無償制度が、教科書の内容や選択に関する保護者の関心や意識を希薄化させていることは否めない。また、無償制度にともない教科書価格が必要以上に抑えられ、教科書の多様化や工夫を困難にしていると指摘されている。これらのことが、「教科書はもらっても開かない」ともいわれる事態を招いている。
教科書がより工夫のある多様なものとなっていくためには、教科書に一定のコストがかかることは直視しなければならない。当面、教科書にかかる予算の増額措置によって、工夫をこらし質を向上させた教科書については、それに見合う価格が確保できるようにすることが必要である。
その上で将来の課題として、教科書をより良いものとしていくため、子どもの保護者に教科書の内容に関心を持ってもらいその選択に責任を意識してもらう仕組みを考えていく必要がある。無償制度を維持するべきなのか、欧米諸国などに見られる無償貸与が良いのか、そのほか一部無償や有償への切り替えも含めていくつかの制度が考えられる。教科書の無償制度は、憲法26条2項に規定する義務教育の無償の精神に沿って導入された制度であるが、通説的には教科書無償は憲法上の必然ではない。いやしくも無償制度の存廃が財政負担削減の問題として扱われてはならないが、教育をより向上させるために必要な限り無償制度を見直すことも検討していくべきである。教科書をよりよいものとするため、教科書の費用負担がどうあるべきか、今後論じていかなくてはならないと考える。
(6)教科書を使ってよりよい教育が行われるために
1. 教科書だけを教える教育からより工夫ある教育へ
教科書会社は、その会社の教科書を使った授業のために教師用の指導書を発行しているが、多くの教員がこの指導書に頼って授業を行っているという。この高価な指導書を公費で負担して教員に配布している自治体も少なくない。このような指導書は、確かに一定の授業内容を確保する役に立っているとはいえようが、マニュアルに頼った授業は、教科書にしばられた画一的で面白みにかける教育となりかねない。
言い古された表現ではあるが、「教科書を教えるのではなく、教科書で教える」のだという理念は、学校教育において今だ一般のものとなっているとはいえない。教育内容をどのように決定し、どのような教科書を使うとしても、教える立場にある教師の教授術、創意工夫は今後ますます問われる問題である。子どもに対する愛情、教えることへの情熱、教授の工夫にあふれた教員がたくさんいることは事実である。しかしこれら傑出した教員だけでなく、全ての教員がもっと教える技術を高め、教材や教育内容について研究する機会を持てるようにすることが必要である。一度しかない子どもの教育過程において、資質に欠ける教員が教壇に立ちつづけるのは許されないことなのである。
現在、教員の養成は大学の教員養成課程によっているが、具体的な教える技術、学級運営方法など教員として欠かせない実践的な教員養成が果たして行われているかは疑問である。教員採用後の研修やOJTもこうした要請に十分応えているとはいえず、熟達したプロの教員を組織的に育て上げる仕組みに欠けているといわざるを得ない。教員養成の段階において、こうした実践的な技術を習得するための教育や実習を大幅に追加するとともに、採用段階でもこのような視点から選考する制度とするべきである。
一人前の教員として、教壇に立てるようになった後の取組みも重要である。日々の授業にあたって、教員が十分な準備を行っていないことも、画一的な教育を招く要因である。一人ひとりの教員が、常に授業の方法や教材について研究準備を行うための時間・設備を整えることが必要である。さらに、時代の変化に対応して常に子どもたちにふさわしい教育を提供するためには、継続的な研鑚の取組みを続けていくことが欠かせない。現在の教育諸条件や、教員に用意されている研修と再教育のプログラムは、到底そのような視点に立っての要求に応えるものとはいえず、大幅な見直しを行う必要がある。
そして、このような研鑽の機会が保障されてなお意欲を持たず、新たな教育内容を理解したり、教える技術を維持向上させていくことのできない教員は、学校から淘汰されていく教育現場としなければならない。そのためには、現在の教員免許資格の弾力化を進めつつ、生涯有効となっている教員免許の更新制についても検討していくべきである。
教育の質を確保するためには、教科書にとどまらず、教員の質をいかに確保し維持していくか、これらの問題をより真剣に検討していくことが必要であると考える。
2. 「教科書を教えるのではなく教科書で教える」から「教科書も教える」を展望して
一人ひとりの子どもに適した多様な教育を実現するため、将来的には教科書のみにとらわれず、様々な教材が積極的に学校教育に取り入れられるべきであると考える。教科書は、そうした様々な教材の中のひとつとして位置付けられていくことが望ましい。
その前提としては、教員の教材作成や教える能力がより向上する必要があるが、それと共に、客観的に授業や教材をチェックするしくみも必要となる。学校そのものをより地域や保護者に開かれたものとしていくためにどのような取組みをすべきなのか、今後検討していく必要があると考える。
以上
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