25日午後、議員会館内において近現代史研究会の第6回会合が開かれ、先回に引き続いて瀧井一博兵庫県立大学教授を講師に招き、「伊藤博文の描いた『国のかたち』」というテーマの後半部分として、「国のかたち」としての憲法と明治40年の憲法改革を中心に講演を聴き、質疑を行った。
瀧井講師はまず、Constitutionを「憲法」と訳すべきなのかと問題提起し、イギリスの法学者ジェームズ・ブライスの二種類の憲法という考え方が改正しにくい硬性憲法と改正しやすい軟性憲法とされているのはおかしいと指摘して、それは本来硬直した「国のかたち」と柔軟な「国のかたち」のことであるとした。そして、伊藤博文は明治憲法だけでなく行政のあり方も含めて、国のかたちを考えていたと述べた。
瀧井講師は、政府は政党政治から超然とすべきだという考え方は、黒田清隆のものが有名だが、伊藤博文もまた地方長官を集めた席で同様の演説をしていることを紹介しつつも、実際には伊藤は自由党との提携や立憲政友会の結成を行っていることを指摘した。そして、当時の伊藤は山県有朋という内務省・陸軍・貴族をおさえた最大のライバルとの緊張関係の中で政治的リーダーシップを取り、一方では政党指導者であり他方では元老であるという立場で活動していたが、自らが画策した日露協商が破れて日英同盟が成立する中で、リーダーシップを失い、宮中に押し込められたと語った。
瀧井講師は、宮中に押し込められた伊藤が、帝室制度調査局総裁に就任し、皇室制度の整備をはじめとする「国のかたち」の総点検を意図したと述べた。講師は、明治40年に「公式令」と「軍令」などが定められたことに着目しつつ、「軍令」が帷幄上奏権に法的根拠を与え、昭和となった後に統帥大権をもとに軍部が政治に介入する道を開いたとする従来の見解は単純に過ぎるのではないかと指摘した。その理由は、伊藤がまず「公式令」によって全ての法律・勅令に内閣総理大臣の署名が必要となるようにして内閣中心の責任政治の制度化を図り、それにあわてた山県などの陸軍の抵抗によって従来の慣例である帷幄上奏権が守られた結果が「軍令」であるからだとした。瀧井講師は、伊藤による一連の制度改正は、憲法そのものは改正しないけれども、まさに「明治40年の憲法改革」と呼ぶべきものであるとの自説を披瀝した。
瀧井講師は、当初伊藤の政治的リーダーシップに不満であった原敬が、後に伊藤こそ国家と皇室について深く考えていたと評価したように、伊藤は大局的かつ長期的なスパンで国家の運営を考えることができたステーツマンであったと述べた。そして伊藤から学ぶべきことは、明治40年の憲法改革に見られるように、Constitutionのトータルでダイナミックな把握であり、「立憲エンジニアリング」の能力であるとした。同時に瀧井講師は、伊藤は政党政治を展望し、憲法の改正まで視野に入れていた可能性があるが、明治憲法が改正されざるべき「不磨の大典」であるという意識を国民に植え付けた張本人でもあると指摘し、その克服が必要であると述べた。
質疑の中で瀧井講師は、憲法を従来のように国家権力を縛るためのものとする考え方から、アリストテレスに立ち返って、国民が主体的に国家形成に参与していくためのものとする考え方への転換を提示した。
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