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2006/04/18
近現代史研究会、大隈重信をテーマに野党の条件を学ぶ
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 18日午後、議員会館内において、民主党のシンクタンクである公共政策プラットフォーム(プラトン)の主催する近現代史研究会の第3回会合が開かれ、首都大学東京の五百旗頭薫准教授を講師に迎え、「野党の条件−大隈重信の場合」のテーマでの講演を聴いた。

 冒頭に藤井裕久座長(元代表代行)が、今日は日本の二大政党政治の原点について学びたいと挨拶し、直ちに講演が始まった。

 五百旗頭講師はまず、日本で野党を作る場合に困難がともなうのは歴史的イメージが乏しいからだとし、むしろ戦前の1920年代には政友会と憲政会の二大政党による政権交代の時代があったと指摘した。しかし講師は、戦前史で引用されるのは幕末・維新史が中心であり、その主人公たちは政党というものに縁がなく、その歴史からは政党を育てる条件は出てこないと語った。また講師は、戦前の政党指導者としてポピュラーな原敬は、政友会を与党として育てたのであって、ここから野党としてあるべき姿の条件を引き出すことは困難だと述べた。

 そこで五百旗頭講師は、前半生は傲岸不遜で大風呂敷などと酷評されつつも、後半生において野党を育成して国民政治家となった大隈重信を題材として、野党の条件を探ると述べた。講師は、外交官として出発しながらも、財政家に転じ、政府内で国会開設に賛同して追放されるという初期の大隈の姿を語りつつ、当時の状況の下で組織優先の板垣の自由党と政策優先の大隈の改進党のそれぞれが持つ問題点を説明した。そして、不平等条約改正を求めつつも、国会開設前に政府によって改正が行われることは困るという当時の自由民権派の実情に触れ、その中で大隈が外相に復帰して条約改正交渉に当たった後再度失脚した経緯が説明された。

 五百旗頭講師は、第一回衆院選の後のいわゆる民党連合の中での少数派であった大隈の立場、初期国会での地租軽減論を背景にした歳出削減闘争などを説明した。そして、当時の政党の政策論の水準は低くなかったが、むしろ国会開設後に水準が下がったとし、それは財源を示さずに議論することに慣れたからではないかと指摘した。

 五百旗頭講師は、日清戦争後に大隈が進歩党を結成し自由党と匹敵する勢力を得たこと、しかし金本位制のためにインフレを抑制すべきだという大隈の消極主義とインフレを容認する自由党の積極主義とが対立し、大隈は不評を買って「政治的な死」を迎えたと思われつつ、その後に政権復帰を果したことなど、大隈のたどった複雑な経路を説明した。

 五百旗頭講師は、結論的な感想として、「与党になろうとし続けることが野党の条件」であるとしつつ、とりわけ日本においては政党の二大要素である政策と組織がジレンマに陥りがちであるとし、それは論争しつつ親睦することが不得手な日本的風土の問題ではないかと指摘した。さらに講師は、その中にあって自らの周りに自由闊達な言論空間を作りえた大隈重信の資質について、傲岸不遜な前半生からの発展という要素を指摘した。

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