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2006/04/25
近現代史研究会、金解禁までの経済・金融政策を学ぶ
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 4月25日午後、民主党のシンクタンクである公共政策プラットフォーム(プラトン)が行っている近現代史研究会は議員会館内で第4回会合を開き、東京大学大学院経済学研究科の伊藤正直教授を講師に迎え、「戦間期日本の経済政策・金融政策」という題目で、主として第一次世界大戦から金融恐慌を経て金解禁に至る日本の経済・金融政策について講演を聴いた。

 細川律夫事務局長(衆院議員)の司会の下、冒頭に藤井裕久座長(元代表代行)が挨拶し、戦間期にはいろいろな事件があったが、その根底には経済問題があるので、以前から講演を聴きたかったと述べた。

 伊藤講師は、日本政府の年間予算が2億円であった時代に日露戦争の戦費に20億円かかり、その内8億円分をロンドンで発行した外債で賄い、残りを国内銀行のシンジケート団の引き受けなどで賄ったため、政府は毎年利払いに追われていたというところから話を始めた。そして、第一次世界大戦による輸出増加などのために日本は債務国から債権国になったが、まだ基礎的な競争力を欠いており、欧米諸国の復興とともに反動に見舞われたとした。

 ここで伊藤講師は、第一次大戦後の経済ブームでは資産価格のみならず卸売物価も高騰したが、80年代半ばからのバブルでは資産価格のみが高騰した特異性に触れつつ、第一次大戦後の外貨持高の半分を連合国への貸付に、半分を中国向けの政治借款にあてたこと、そして中国向けの政治借款は返済不能となり、後に税金で処理されたことにも触れた。

 伊藤講師は、1920年に大戦後の反動恐慌が訪れたとき、それに対応する政策として縮小均衡論と拡大均衡論が対立し、前者は憲政会から民政党によって、後者は政友会によって唱えられたが、実際の経済政策としては両者ともにあまり違いはない方法を取らざるを得なかったことを指摘した。また、この反動恐慌に対しては日本銀行による救済措置が取られたが、その融資はほぼ年末までに回収されたと述べた。

 さらに伊藤講師は1927年に起こった金融恐慌が、東京渡辺銀行の破綻に始まり台湾銀行の休業に至る経過を説明するとともに、大蔵省と日銀によって様々な金融機関救済策が取られ、その完済には延々と戦後まで、場合によっては平成年間に至るまでかかっていると語った。
 
 伊藤講師は、戦間期はまた国際通貨制度が大きく変化した時代であると述べ、国際的に金本位制が取られていたが、大戦が初めての総力戦であったため、各国政府はデフレ基調になることを恐れて金本位制を停止し、戦後アメリカがいちはやく金本位制に復帰したと語った。そして、反動恐慌や関東大震災のために、日本は金本位制停止を継続したと述べた。しかし、金本位制を採用していないことが外債の借り換えを阻害するなどの具体的な問題があり、さらに金本位制を採用していない国は三等国であるとの認識もあったので、政府は再三金本位制への復帰を試み、ついに井上蔵相のときに復帰を実現したが、そのときまさにニューヨーク証券取引所での大暴落を引き金とする世界大恐慌が始まっており、その嵐に向かって窓を開くことになってしまったと語った。伊藤講師は、金解禁の決断には井上蔵相の個性が大きく影響したと思われるが、井上蔵相の経済思想は典型的な古典派ではなく、金融と産業を一体のものとして見るより新しいものであったのではないかと語った。ここで伊藤講師は、ニクソンショック後の銀行の行動との類似点を指摘しつつ、金解禁時の民間銀行の投機的行動について語った。
 
 最後に伊藤講師は、戦間期の金融政策への歴史的評価について触れ、講演は終了した。

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