20日午後、国会内において「日本の近現代史調査会」の第5回会合が行われ、前回に引き続き神戸大学の五百旗頭真教授より、戦後の外交の流れと経済発展の関わりを中心に講演を受けた。
細川律夫事務局長(衆議院議員)の司会の下、冒頭に藤井裕久同調査会会長(代表代行)が、今回までの調査会の内容を振り返る挨拶を行うとともに、国会閉会中の調査会の開催は困難であり、次々回には日米関係の転換点ともなったアメリカの排日移民法についての講演を受けたいと述べた。
五百旗頭教授は、終戦決定の経緯から話を説き起こし、終戦決定において天皇の果たした役割を示すとともに、敗戦により全てを失ったことによって日本人の多数が、「平和と安全と繁栄」の重要性を国民的共通認識として持つことになり、それが戦後日本の国家目標となったと説明した。そして、日米関係を基軸にしつつも再軍備を拒否した吉田茂の外交路線が、この路線を現実化したが、その代償となったのは日本の自立性であったと語った。
そして、保守合同後の鳩山政権と岸政権は反吉田路線を標榜しつつも、国内の「革新勢力」の反発とアメリカの日本再軍備方針の転換により自らの路線を実現できず、安保条約の対等化などをすすめて「吉田なき吉田路線」を取ることとなり、それが池田政権・佐藤政権に受け継がれたなどと説明した。
その後の国内経済の発展としては、1960年代に「奇跡の高度成長」が実現し、70年代にはドルショックやオイルショックで受けた大きな打撃を克服することによって、80年代の日本製造業の強さが実現したと説明。そして、これらの成功体験のために、日本は国際社会の中で自らの占める大きな比重からして当然必要とされる国際的な役割を果たす方向への転換が遅れてしまい、そのことが湾岸戦争においてあらわになったと指摘した。
五百旗頭教授は、カンボジア和平に日本外交の果たした大きな役割とPKO協力法の成立から自衛隊のカンボジア派遣に至る過程を高く評価し、このことによる日本における国際貢献や憲法問題に対する世論の変化について肯定的にコメントした。さらに、田中政権時代の東南アジアにおける反日暴動を踏まえて、1977年に打ち出された「福田ドクトリン」がもたらした好結果を紹介するとともに、周辺国が受け入れられないことをしては外交は成り立たないと強調した。
講演後、参加国会議員との質疑に移り、戦前のリベラル官僚の存在や、中国の軍事的プレゼンスの問題などについて、掘り下げた論議が交わされた。
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