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2006/06/13
近現代史研究会、近現代史にみる政治と外交を学ぶ
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13日午後、民主党のシンクタンクである公共政策プラットフォームの近現代史研究会の第8回会合が開かれ、国際交流基金の小倉和夫理事長を講師に迎え、「近現代史にみる政治と外交」とのテーマで講演を聴き、政治と外交の関係について学んだ。

 冒頭藤井裕久座長(元代表代行)が挨拶し、講師は「吉田茂の自問」などの著書のある外務省きっての知性派であり、以前から話を聴きたかったと語った。

 講師はまず、日本外交最大の誤りは第2次世界大戦への突入であったとし、軍部に責任があるとされているが、外交にも誤りがあったのではないかと問題提起した。そして、朝鮮戦争が勃発し日本が独立と再軍備の問題に直面していた1951年に、時の吉田茂首相が若い外交官を箱根の別荘に招いて日本外交の誤りについてレポートするように命じた結果、「日本外交の過誤」という調書が作成されたと述べた。この調書は長い間極秘とされていたが、情報公開法にもとづく請求によって公開された。

 講師は、過誤の原点は満州事変の勃発にあったとし、関東軍の暴走に対して責任が追及できなかった問題とともに、事変について取られた「不拡大方針」という外交政策が、口当たりは良いが事実上の現状追認であったことも問題だったとした。ここで講師は、海外に派遣した軍隊の行為について本国で責任を追及することの困難さをも指摘した。続けて講師は、日本が中国との二国間交渉を追及したのに対して、中国は国際連盟に提訴して第三国を問題に引き入れたことで優位に立ったと指摘した。講師は、事変開始の根源には日本経済の活路を満州に求める国論があったと指摘しつつ、国際連盟に対する考え方など国際秩序のあり方に関する認識に日本と欧米では大きな開きがあったことも問題であったとした。また国際連盟が日本の暴走を止められなかったことは、現在で言えば国連がアメリカの暴走を止めることができるかという問題につながるとした。

 ここで講師は、1920年代の幣原外交は英米帝国主義国との協調外交であったこと、その後日本は満州事変を契機に現状打破勢力となって英米という現状維持勢力と対立したこと、とりわけ上海事変でイギリスの利権と衝突した後に日本に対する国際世論が一変したことを指摘した。また、アメリカでは軍首脳に対する大統領の人事権がシビリアンコントロールを支えているが、日本では首相も陛下でさえも大将の更迭が出来なかった事実を指摘した。

 講師は過誤の原因として、満州事変の処理を誤ったこと、国際連盟を脱退して孤児となったことに加えて、日独伊防共協定の締結があるとしつつ、その背景にはソ連が中国の国民党と共産党を支援していたことが日中関係の打開を妨げるとの認識があった指摘した。その後、独ソ不可侵条約締結の際などに方向転換する可能性があったが、日独伊三国同盟にまで行ってしまったとし、三国同盟には力を得て対米交渉を有利にするという論理があったが、それはアメリカの最も嫌うことだったと述べた。

 講師は、軍部の力が強くても外務大臣が辞職する覚悟があれば打開策はあったとし、調書の結論にある「重大時に当っては、何でもかんでも穏便に収める必要はない」との言葉を引いて、日本外交の過誤の話を終えた。
 講師は続けて、内政と外交の密接にからむ問題の複雑さを具体例をあげて説明した。

 その後の質疑は仙谷由人座長代理の司会で行われ、その中で講師は、思想を持ってそれを他国と共有することが力の源泉であるという認識が日本人には欠けていることを強調した。

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