声なき声が届く政治に

田島一成 前環境副大臣

水俣病問題解決へ

田島一成
――政権交代以降、取り組んできたことは。

 水俣病患者の方々の救済に力を傾注してきた。
 95年に政治解決が一定程度図られたが、残念ながら救済しきれなかった方が数万人もいらっしゃった。

――その方たちはどうして救済されなかったのか。

 救済のハードルが高く、救済に該当するための検診にはねられた、あるいは救済自体の存在を知らなかったという方々もたくさんいた。同じように生活をしてきた家族のなかで兄弟は認定されたが本人だけが認定されなかったという例もあり、当然認定されるべき人たちが取りこぼされた。こうした方を放置していたことに怒りを覚えながら、なんとか政権交代以降、救済していきたいという思いで働いてきた。

――95年以降15年、誰も問題点を指摘しなかったのか。

 とんでもない。関係地域からは被害者の皆さんが集まり、団体をつくり政府に対して要望、要請活動をずっと続けられてこられた。裁判に訴えられた団体もいたが、当時の自民党政権では患者団体と向き合うこともなければその救済に対しても具体的なアクションはなかった。政権交代前にようやく与野党が一致して「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」が成立した。そこからスタートした状況。

――自民党時代の大臣は何をしていたのか。

 毎年5月1日の慰霊式典には政務三役が出席していたようだが、被害者団体と直接向き合い意見交換したという話は聞いていない。


田島一成
――政権交代して、どう解決したのか。

 特措法に基づく救済を進めるため、直接被害者の皆さんと向き合い、生の声を聞きながら、具体的な対策、救済措置の内容を決めていこうと努力を重ねてきた。まず私自身が副大臣として現地に赴き、被害者団体の皆さんと意見交換。それを小沢環境大臣(当時)に伝え、大臣も水俣を訪問。翌年の慰霊式には政務三役はもちろん、鳩山由紀夫前総理が初めて総理として出席し、患者の皆さんと向き合い手を合わせた。これは私たちの政権でなければ実現できなかったと確信している。


――歴代総理は、なぜ行かなかったのか。

 役人主導で、ややこしい、重い問題には触れさせなかったのではないか。しかし、私が初めて水俣病の説明を受けた一昨年の10月はじめ、私が「行く」と言ったら環境省の幹部は「ぜひ行ってください!」と口を揃えて導いてくれた。政治家の姿勢一つで変わると思う。

――実際、放置されていた方はどうなるのか。

 すでに特措法の救済が昨年10月からスタートし、救済される方がどんどん出てきている。私たちはこれですべてが終わりだと思っていない。長年苦しんできた被害者の方の救済はもちろん、水俣の地域の環境・経済問題など様々な切り口から水俣病で苦しんできた人や地域をしっかり支えていく具体策に取り組んでいる。

▲ページトップへ